かつては、描きたいものが溢れていた。指先から
だが、その輝きは長くは続かなかった。
二度目の個展は酷評された。「自己模倣」「才能の枯渇」「若き日の幻影」。そんな言葉が、彼のプライドを容赦なく切り刻んだ。評価を恐れるあまり、筆は鈍り、色を失った。かつて画面を支配していた大胆で挑戦的な筆致は影を潜め、代わりに現れたのは、誰の心にも響かない、ただ無難で退屈な絵ばかり。当然、絵は売れなくなった。
生活のために始めたコンビニの深夜バイトは、彼の創作時間を無慈悲に削り取っていく。蛍光灯の白い光の下で無機質な商品バーコードを読み取るたび、自分の価値までスキャンされているような気がした。家賃はもう三か月も滞納している。画材を買う金どころか、明日の食費すら
才能も、金も、希望も、何もかもが底をつきかけていた。アトリエの床には、描きかけで放置されたキャンバスや、空になった絵の具のチューブが無造作に転がっている。かつて夢を語り合った友人たちの活躍をSNSで目にするたびに、劣等感と焦燥感が胸を焼いた。もう、何も描けないのかもしれない。そんな絶望が、じわりじわりと圭吾の心を蝕んでいた。
壁に立てかけられた姿見に映る自分は、ひどくみすぼらしかった。痩せて血色の悪い顔、伸び放題の無精髭、焦点の定まらない虚ろな瞳。これが、かつて将来を
その時だった。
古びたアパートのドアをノックする音が響いた。低い、落ち着いた、それでいて確かな響きを持つノック音。こんな時間に、誰だろうか。家賃の催促にしては、少し丁寧すぎる。いぶかしみながらドアを開けると、そこに立っていたのは、見たこともない女性だった。
絹のような艶を持つ黒髪は、夜の闇を溶かし込んだように深い色をしていた。仕立ての良い黒いコートに身を包み、その立ち姿はまるで、闇の中に咲いた一輪の
その瞳が、じっと圭吾を見つめている。値踏みするような、それでいてどこか慈しむような、相反する光を宿した不思議な眼差し。圭吾は、その視線に
「高村圭吾さん、ですね?」
凛とした、鈴を転がすような声。しかし、その声色にはどこか人間離れした冷たさが含まれている。
「……は、はい。そうですけど……どちら様、でしょうか?」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「
女はそう名乗ると、小さく会釈した。その所作は洗練されており、育ちの良さをうかがわせる。
「突然の訪問、失礼いたします。少し、あなたにお話がありまして」
「俺に……話?」
「ええ。あなたの絵について、です」
その言葉に、圭吾の心臓がどくんと跳ねた。絵について? 今の俺の絵に、一体どんな話があるというのか。まさか、また
「どうぞ、中へ。……散らかっていますが」
圭吾は反射的に女を招き入れた。警戒心よりも、彼女が何者なのか、そして何をしに来たのかという好奇心が勝っていた。
菫はためらうことなくアトリエに足を踏み入れた。埃っぽい空気に眉一つ動かさず、床に散らばる画材やキャンバスをこともなげに避けながら、部屋の中央まで進む。そして、壁に立てかけられた古い作品――圭吾がコンクールで大賞を取った、荒削りだが強烈なエネルギーを放つ自画像――の前で足を止めた。
「……素晴らしい絵ですね」
菫は、その絵から目を離さずに呟いた。その声には、初めて確かな感情――感嘆のような響きが籠もっていた。
「あなたの初期の作品。コンクールで拝見して以来、ずっと忘れられませんでした。この、燃えるような情熱、見る者の魂を掴んで離さない力強さ……今のあなたには、失われてしまったもののようですが」
最後の一言は、鋭い刃のように圭吾の胸を刺した。核心を突かれた痛みと、過去の栄光を肯定されたわずかな喜びが、ないまぜになって押し寄せる。
「……今の俺には、もう、あんな絵は描けませんよ」
自嘲を込めて言うと、菫はゆっくりと圭吾の方へ向き直った。その菫色の瞳が、再び彼を捉える。
「いいえ、描けますわ。あなたの中には、まだ炎が
断定的な口調。まるで、彼の心の奥底まで見通しているかのようだ。圭吾は言葉を失った。この女は、一体何者なんだ?
「高村さん。私は、あなたの才能を高く評価しています。そして、その才能がこのまま埋もれてしまうことを、ひどく残念に思っているのです」
菫は、コートのポケットから一枚の封筒を取り出した。上質な紙で作られた、厚みのある封筒。
「単刀直入に申し上げます。私と、契約を結んでいただけませんか?」
「……契約?」
「ええ。あなたに、私の絵を描いてほしいのです」
菫は、その封筒を圭吾に差し出した。
「これは、手付金です。これで身辺整理には困らないでしょう。そして、これが私の提示する条件です」
もう一枚、
――私の邸宅に住み込み、制作に専念すること。
――生活に必要なものは、全てこちらで用意する。衣食住、画材、その他一切。
――その代わり、あなたは定期的に『私』を描くこと。
――描く場所、時間、そして
――制作された絵画の所有権は、全て私、霧島菫に帰属する。
――契約期間中、私以外のものを作品として描くこと、および外部での創作活動は一切禁止とする。
信じられないような内容だった。まるで悪魔との契約だ。全てを保障する代わりに、魂を売り渡せと言っているようなものだ。
「……これは、どういう……?」
「言葉通りの意味ですわ。あなたは、私の求めるままに、私を描き続ける。ただそれだけでいいのです。生活の心配も、批評家の評価も、何も気にする必要はありません。ただ、筆を握り、私という存在をキャンバスに写し取っていただければ」
菫の声は、甘美な毒のように圭吾の耳に染み込んだ。
屈辱だった。画家としてのプライドが、そんな条件を飲めるはずがないと叫んでいる。自分の芸術を、金で、しかもこんな歪んだ形で縛られるなど、あってはならないことだ。
しかし、一方で、抗いがたい魅力も感じていた。この泥沼のような生活から抜け出せる。再び、絵を描くことに専念できる。目の前のこの美しい、しかし底知れない女を描く……その行為自体に、何か
何より、彼にはもう、選択肢がなかった。この申し出を断れば、待っているのは路上生活か、あるいは絵筆を完全に折る未来だけだ。才能の枯渇を自覚している今、自力で再起できる可能性は限りなく低い。
圭吾は、震える手で便箋を握りしめた。菫色の瞳が、彼の答えを待っている。その瞳の奥には、拒絶など許さないという、絶対的な意志が宿っているように見えた。
「……分かり、ました」
絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しかった。プライドも、
「その契約、お受けします」
その言葉を聞くと、菫は満足そうに、再びあの微かな笑みを浮かべた。それはまるで、罠にかかった獲物を見る狩人のような笑みにも見えた。
「賢明なご判断ですわ、高村さん。では、早速準備を。車が下に待っています」
有無を言わせぬ口調で、菫は
アトリエのドアが閉まる直前、圭吾は振り返り、部屋の隅に置かれた、埃をかぶった自分の受賞作を見た。かつての情熱と、現在の絶望。そして、これから始まるであろう、未知の未来。
車の後部座席で、菫は窓の外を眺めていた。その横顔は
車は夜の街を滑るように走り抜け、やがて郊外の、木々が生い茂る一角へと入っていく。その奥に、巨大な鉄の門が見えた。門の先には、闇の中に沈む西洋風の大きな邸宅が、まるで眠れる城のように静かに佇んでいた。ここが、霧島菫の
運命の歯車は、もう後戻りできないところまで回り始めていた。
―――