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──意識が、深い霧の中を彷徨っていた。


どこかで、誰かが囁いている。

低く、落ち着いた声。

温かい手が額を撫でる感触がある。


(……誰……?)


眠りと覚醒の狭間で、ふと意識が浮上しかける。

目を開けようとするが、まぶたが重い。

それでも、微かに声が聞こえた。


「……まだ起きなくていい」


(……レオ様?)


薄れる意識の中で、手がそっと髪を撫でる感触がした。

安心するような温もり。けれど、何かが妙だ。

いつもより、ずっと……

また意識が沈む。


──次に目を覚ました時、部屋は静かだった。


まばたきを繰り返しながら、ぼんやりと天井を見上げる。

ゆっくりと指を動かしてみると、以前よりははるかに力が入る。


(……何が……)


よくわからなかった。

何故身体がこんなにだるいのか、自分が寝ているのか。

ぼうっとした頭で考える。


(──ああ、そうだ……夜会で……)


そこまで考えが戻るのにだいぶん時間を有した。

毒の影響はもう抜けつつあるのだろうが、いまだ本調子ではないようだ。

エリアスはぼんやりと辺りを見る。

寝台のそばには水差しとグラスが置かれている。

喉が渇いていた。

上体を起こそうとした瞬間――


「……起きたか」


静かな声が、すぐそばで響いた。


驚いて顔を向けると、そこにはレオナードが座っていた。

姿勢を崩さず、ただエリアスを見ている。


「レオ……様?」

「無理をするな。お前はまだ回復していない」


レオナードは静かにグラスを手に取り、水を注ぐとエリアスに差し出した。

エリアスは戸惑いながらも、それを受け取る。


「……すみません、ご迷惑を……」


そう言いかけて、ふと気づく。


(……この部屋、どこだ?)


見慣れない天井、広すぎる室内。

重厚な家具。

装飾の施された寝台。

明らかに、"官舎" ではない。


「レオ様……ここは……?」


エリアスが問うと、レオナードはわずかに目を細めた。


「東の宮殿の一室だ」


(……東の宮殿?)


この国の王宮には、いくつかの区画がある。

その中でも"東の宮殿"は、王族の私的な空間として利用される場所だったはずだ。

特に"正妃や側室が暮らす区域"としても知られている。


(……なぜ、そんなところに)


以前のように医療院ならばまだ話はわかる。

いや、記憶を辿れば目覚めたどこかの景色はそこだった気もする。

しかし、何故自分をここへ──。

エリアスの胸に、ぞくりとした感覚が広がった。

だが、それを言葉にする前に、レオナードの手がそっとエリアスの頬を撫でた。


「……お前は、しばらくここで過ごせ」

「……え?」

「ここなら、誰にも邪魔されることはない」


そう言ったレオナードの目は、鋭く、決して逆らえないほどの圧を秘めていた。


「お前は私のものだ」


静かに、しかし確信を持って告げられた言葉。

それは、命令であり、決定事項だった。

エリアスの心臓が、一瞬だけ強く跳ねる。

その宣言に、確かに「愛されている」と感じた。


だけど――


(……これは、"捨てられる前に閉じ込められる" のと何が違う?)


疑念と、愛されているという実感がせめぎ合う。

そして、それは恐怖へと変わっていく。


「……これは、幽閉ではありませんか」


震える声で問いかけると、レオナードは僅かに眉を寄せ、呆れたように笑った。


「お前が毒を飲むような真似をするから、こうなったのだ。どうせ……遅かれ早かれ、だ」

「……俺は、ハルト様を守るために――」

「お前にそんな命令はしていない」


強く遮られる。

エリアスは何も言えずに、ただレオナードを見つめた。


(これは……どうして……)


レオナードの手が、再びエリアスの髪を撫でる。

その指先が、驚くほど優しい。


「……お前をもう出す気はない」


レオナードの声に迷いはない。その瞳にも。

──抗えるはずもない。

エリアスの背筋に、冷たいものが走る。


――これは、"閉じ込める決意" なのだと、遅れて理解した。


それでも、エリアスは今、あまりにも弱っていた。

体の奥に残る疲労が、思考を鈍らせる。


(……考えなくては、でも……)


瞼が重い。

やがて、エリアスは再び意識を手放した。

その直前、レオナードに抱きしめられる感覚と、囁くような声が聞こえた気がした。


「……お前は、もうどこにも行かなくていい」


温度に、どこか安堵してしまう自分がいる。

そして、深い眠りに落ちていった――。


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