室内の空気が、じわりと重くなっていくのを感じた。
レオナードの手は、いまだにエリアスの手首を掴んだままで、その視線はまるで見定めるように、じっとエリアスを見つめている。
「……レオ、様?」
声をかけると、レオナードはゆっくりとした動作でエリアスの手首から指を滑らせた。
肩に触れ、服の上からするりと撫でる。
「……傷を、見せろ」
間近で低く落ちる言葉。
エリアスは絡む視線を避けるように、目を逸らして息を小さく呑み込む。
「……もう治癒魔法で完治していますよ……」
「いいから、見せろ」
有無を言わせない声音に、エリアスはため息をつくしかなかった。
「……わかりました」
エリアスが観念すると、レオナードは漸く手を離した。
そして、ベッドの端に腰を下ろす。
「ここでいい。座れ」
そう言って、再び手を軽く引かれる。
「……そこに、ですか?」
エリアスが一瞬戸惑ったのも無理はない。
レオナードが促したのは、まさかの 膝の上 だったのだから。
「嫌なら無理にとは言わないが……お前が立ったままだと、見づらい」
「……」
(お互いに座るか立つかで片付く話でしょうよ……)
そう思いつつも、言うのはやめた。
何せレオナードの目はこちらを逃さないとでも言うかのように、見据えている。
拒めば、また面倒なことになるのは目に見えていた。
「……わかりました」
仕方なく、エリアスはゆっくりとレオナードの膝の上に腰を下ろす。
自然と体が近くなり、肩が軽く触れ合う。
(……落ち着かないな)
そういうことをしている時は、エリアスも熱に浮かれていることもあり拒みはしない。
が、今は平常時だ。
そう思っていると、レオナードがふっと息を吐いて笑う。
「……やけに素直だな」
「……無駄な抵抗をしても、どうせ逃げられないでしょう?」
エリアスがそう返すと、レオナードは 「わかっているなら、いい」 と静かに言った。
「肩を出せ」
命じる声に、エリアスは仕方なく上着を軽くずらし、肩を露わにする。
肌を晒すのなんか慣れているはずなのに、妙に気恥ずかしい。
「……」
レオナードの目が、すぐに傷跡へと向かう。
治癒魔法で治ったとはいえ、エリアスの白い肩にはかすかに赤い痕が残っている。
レオナードの指がそっと伸び、傷跡をなぞるように触れた。
すると、くすぐったさと、微かな緊張感が走る。
「……っ」
エリアスが肩をすくめると、レオナードの手が軽く力を込めた。
「じっとしていろ」
「……してますよ……」
どうしてこんなに丁寧に触れるのか、理解できない。
傷が治っているかどうかなんて、見ればわかるはずだ。
矢先──
「……っ」
温かなものが、肩に触れた。
(え……?)
一瞬、何が起こったのかわからなかった。
しかし、意識が追いつくよりも早く、再び そっと唇が押し当てられる。
「──レオ様……!」
エリアスは思わず肩を引いた。
「……すまない。私のせいで……」
レオナードの声には後悔が混じっていた。
無理に連れ出した結果がこういう事態を生んだのはレオナード自身がよく理解している。
「……別に、いいですよ」
エリアスは困惑しつつ、肩を撫でながら言葉を続ける。
これ以上、主人であるレオナードに謝罪させるわけにもいかないと思ったからだ。
「妃嬪を目指す令嬢でもないですからね、お気になさらず」
それはエリアスにしてみれば冗談めかしたつもりだった。
何せ自分は男だし、傷の一つや二つくらいは生活に支障がないなら問題なんかない。
なのでその言葉に何らかの感情を混ぜたつもりはまるでなかった。
しかし、レオナードの表情が、ほんの一瞬、硬くなる。
「……」
「?」
エリアスはその微かな変化に気づくことができなかった。
だが、レオナードの中では、確実に何かが変わったようだった。
「……エリアス」
「はい?……あっ──」
次の瞬間、レオナードの腕がエリアスの腰を抱き込み、そのままベッドへと押し倒した。
「……っ⁉ ちょっ、レオ様⁉」
驚いたエリアスが腕を押し返そうとするが、それよりも速く、レオナードが手首を抑え込む。
「……今の言葉、もう一度言ってみろ」
「えっ?」
「"妃嬪を目指す令嬢ではない"? なら、お前は……」
「……レオ様?」
エリアスはレオナードがどこに反応しているのか未だに掴めず、困惑に眉を寄せた。
何かしら失態をしたらしい。
レオナードの瞳にはありていに、不機嫌と怒りが浮かんでいる。
(どこにそんな会話があった……?)
「レオ様、やめてください……」
必死に言葉を紡ぐ。
「何故だ?お前は私の恋人だろう?……ならば、普通のことだ」
「……なんですか、その理論……!」
レオナードの手が、エリアスの頬をそっと撫でる。
「私は、お前に刻みつけるしかないのか?」
「……⁉」
「お前が"離れる"ことを考えられないように」
その言葉に、エリアスの心臓が跳ねる。
(……何が、なんで)
普段のレオナードではない。逃げなければならない。避けなければならない。
けれど、レオナードの手は、すでに逃れられないほど強く、エリアスを縛りつけていた。
(嫌だ……こんなの……でも)
拒んだら捨てられるのだろうか?そう思うと力が変に入らなかった。
それでも必死に押し返そうとするが、レオナードは許さない。
「……抵抗しても無駄だ」
低く囁く声が、エリアスの耳元を打つ。
(ダメだ、ここでこんなことをされたら……別れた時に、思い出してしまう……)
だけど、それを言葉にすることはできなかった。
「……っ」
エリアスの目がかすかに揺れる。
それを見たレオナードは、ますます強く抱きしめた。
「……お前は、私だけを見ていればいい」
その囁きとともに、レオナードの顔がさらに近づく。
エリアスは咄嗟に身を引こうとしたが、後頭部を支えるように添えられた手が、それを許さなかった。
「っ……レオ様、待っ──」
言いかけた唇のすぐ前で、レオナードが囁く。
「お前は、誰のものだ?」
その低く押し殺した声に、エリアスの心臓が跳ねた。
「……っ、」
何を言っているんだ、と思う。
だが、レオナードの目は本気だった。
まるで、エリアスが「自分のもの」と答えなければ、今すぐにでも噛みつかんばかりの獣のような視線。
「……っ」
エリアスの喉が詰まり、何も言えないまま口を開閉する。
逃げたくても、逃げられない。
冷たい手首を掴む手と、絡みつくような視線に縛られて。
「答えろ、エリアス」
今度は、耳元に熱い息が落ちる。
(……なんでこんなことを聞くんだ)
エリアスは必死に視線をそらそうとするが、頬を掴まれ、強引に目を合わせさせられる。
逃げ道はどこにもない。
そして──
「……っ!」
突然、唇が塞がれた。
「ん……っ、」
抗おうとしても、身体がこわばって動かない。
押し返そうとした手が、指先まで震えているのを自覚した。
(……なんで……?)
拒絶したいのに、指一本、動かせない。
心の奥で何かが揺れて、溶かされていくようだった。
レオナードの唇は深く、逃がさないように絡め取ってくる。
それはただの口づけではなかった。
確かめるように、刻みつけるように、エリアスを支配する。
「……っ、」
胸が苦しい。なのに、どこか安心してしまいそうになる自分が、怖かった。
(違う……こんなの……)
けれど、最後の抵抗は、とうにレオナードの腕の中に絡め取られていた。
エリアスが力を抜くと、静かな部屋でぎしりとベッドが鳴った。