窓から差し込む柔らかな陽光が、静かな部屋を照らしていた。
王宮内には文官専用の官舎もある。
自邸から通うものも多いが、官舎に住むものをそれなりに多い。
エリアスもその一人で、この部屋こそが彼の住まいであった。
執務室とは違い、簡素ながらも整えられた家具が並び、最低限の生活ができるようになっている。
エリアスは机に座り、書類ではなく、ただ手元の湯気の立つカップを眺めていた。
仕事ができないとなると、こうも手持ち無沙汰になるものなのかと、改めて思う。
(……暇……図書館に行くのも億劫だな……しかし、こんな休みいらないのだけど)
だがレオナードの指示は絶対だ。
どれだけ反論したところで、「お前は休め」の一言で終わるのはわかっていた。
そのため、ここ数日、エリアスは執務室に顔を出すことなく、大人しくしている。
暇だな、と外を見つめながら溜息を落としていた時、扉が軽くノックされた。
「エリアス、いるか?」
聞き慣れたカーティスの声に、エリアスはカップを置いて席を立つ。
「いるぞ。どうぞ」
扉を開けると、そこにはカーティスが立っていた。
エリアスの顔を見るなり、カーティスはほっと息をつく。
「やっとまともな顔色になったな。起きてすぐはあんな感じだったし、心配してたんだ」
「そこまで大事じゃないだろう。ほら、見ての通りもう元気だ」
エリアスは肩を軽く回して見せる。
治癒魔法のおかげで傷は完全に治り、違和感すらほとんどない。
「……まあ、そう言うと思ったけどさ。でも、今回ばかりはちゃんと自覚しろよ?」
「わかってるさ」
苦笑しながら、エリアスはカーティスを招き入れた。
「で? 今日は何の用だ?」
「特に用ってわけじゃないけど、様子を見に来た。お前が暇しているかと思ってね。何冊か本も見繕ってきた」
カーティスがそう言うと、数冊の本をエリアスの前へと出した。
エリアスはそれを受け取り、軽く頭を下げる。
「良く分かってるじゃないか、親友。ありがたい」
エリアスがにっこりと笑う。
カーティスはそれを見て、自分もいたずらっぽく笑った。
「だったらさ、そろそろ復帰の準備を──」
「エリアス様ーっ!!!」
突如として、元気な声が響いた。
扉が開き、駆け込んできたのはハルトだった。
「え、えぇ!? 勝手に──」
カーティスが慌てて制止しようとするが、ハルトは気にせずまっすぐエリアスの元へと駆け寄る。
「よかったぁー! もう大丈夫なんですね!!」
目を輝かせながら、エリアスの手を取りハルトが強く握った。
「……いや、その……まあ、もう平気ですけど……」
突然の勢いに、エリアスは少し戸惑う。
カーティスが頭を抱えながら、ハルトの肩をぽんぽんと叩いた。
「ハ、ハルト様。せめて落ち着いてください……!」
「だって! 俺、すごく心配だったんですよ……!すみません、俺、何もできなくて……エリアス様がいなかったら死んでました」
「は、はあ……」
エリアスはため息をつきながらも、ハルトの純粋な気持ちを汲んで、軽く微笑む。
「まあ、ほら初めてのことですし……大丈夫ですよ、私は」
「本当に良かったです……!」
ハルトは無邪気に笑い、カーティスも苦笑しながら椅子に腰を下ろした。
「ひとまずは、エリアスが無事でよかったということで」
「それっす!俺、本当に心配で……!」
三人で椅子に座ったものの、ハルトは椅子ごとエリアスに近づき、またその手を取る。
エリアス当人も、そしてカーティスもハルトの純粋な行動に口をはさめず、困ったような笑みを浮かべていた──その時だった。
──コンコン
扉が、再びノックされた。
「ん?」
カーティスが首をかしげる。
「誰か来る予定でも?」
「いや……そんな予定は……」
エリアスが応える間もなく、扉が開かれた。
「エリアス」
低く、冷静な声が部屋に響く。
その声を聞いた瞬間、エリアスの背筋が一瞬にして強張った。
(……嘘だろ。え、今か⁈)
そこに立っていたのは、レオナードだった。
いつものように整えられた軍服、淡々とした表情。
だが、微かに滲む気配は、彼が決して穏やかな気持ちでここへ来たわけではないことを示していた。
「殿下……!?」
カーティスが驚きの声を上げる。
ハルトも、突然の登場に目を丸くした。
(まさか……レオナード様が、ここに来るとは……)
エリアスの驚愕は隠しきれなかった。
執務室に呼び出されるならともかく、自ら官舎まで足を運んでくるとは、想定外だった。
レオナードの視線がゆっくりと部屋を巡る。
カーティス、ハルト、そしてエリアスへと向けられ──そのまま、エリアスに注がれたまま動かない。
「何をしているんだ?」
もう一段階低い声が部屋の中に響いた。
はっ、とエリアスは我に返る。今、エリアスの手はハルトが握っている。
そこに疚しさなんて一つもない。何ならカーティスもいる。
けれど、レオナードの目が座っている。慌てて、エリアスはハルトの手を離した。
カーティスが居心地悪そうに肩をすくめ、ハルトも何かを察したのか、口を閉ざす。
(……なんだ、この雰囲気は)
その静けさが、かえって圧を増す。
「……カーティス、ハルト」
静寂を破ったのはレオナードの声だった。
「少し、エリアスと話をしたい。席を外してくれ」
その一言に、カーティスとハルトはぴくりと反応した。
(あ、これ……マズいな)
カーティスはすぐに状況を察し、ハルトの肩をぽんと叩いた。
「ハルト様、そろそろ戻らないと、セオドール様が心配しますし、戻りましょうか!」
「えっ、でも……」
「ほらほら!行きますよ!ね!」
カーティスはハルトを引っ張るようにして扉へ向かう。
ハルトは名残惜しそうにエリアスを見たが、すぐに「また来ますね!」と元気に言い残し、部屋を後にした。
──バタン
扉が閉まり、部屋にはエリアスとレオナードだけが残された。
再び流れる沈黙の時間。
レオナードは何も言わず、エリアスを見つめている。
何を言われるのか予測できない未来に、エリアスはじわりと唇を引き結んだ。
「……レオ様」
ゆっくりと口を開く。
「……その、今日は、どうしてここに?」
レオナードは、わずかに目を細めた。
「……お前の様子を見にだ」
レオナードの言葉が落ちる。
それだけなのに、部屋の空気が変わった気がした。
「……そう、ですか」
エリアスは努めて平静を装いながら答えた。
だが、レオナードの視線が妙に鋭く感じる。
「お前が思ったより"元気そう"だったからな」
わずかに皮肉めいた響きを持つ声。
何かを含ませるような言い方に、エリアスの背筋がぞわりとする。
(……なんだ?)
この雰囲気は、ただの見舞いじゃない。
エリアスが何か返そうとしたその時、レオナードの視線がふっと動いた。
視線の先は──先ほどまでハルトが座っていた椅子に向けられているような気がする。
(……今のは、偶然か? それとも……)
エリアスの胸に、不吉な予感がよぎる。
やはり、レオナードは自分とハルトとの距離を気にしているのだろうか……?
(俺にか、ハルトにか……そこがせめてわかれば)
考えてもどうしてもそこは分からないし、わかるはずもなかった。
そのせいか、自然と足がじわりと後ずさる。
だが、それに気づいたレオナードがすぐに視線を向け──エリアスは射抜かれたように動きを止めた。
「……お前は、本当に"誰にでも"優しいな」
低く、押し殺した声が落ちる。
「……っ」
エリアスの息が詰まる。
言葉の意味を測ろうとした瞬間、手首を強く掴まれて引き寄せられた。
「っ、レオ様?」
驚いて顔を上げると、レオナードの金の瞳が真っ直ぐにこちらを射抜いていた。
その視線は冷静なようで、どこか焦れた熱を含んでいる。
(……まずい)
嫌な予感がする。
逃げなければいけない、距離を取らなければいけない──そう思った瞬間だった。
「……逃げるなよ」
レオナードの指が、ぐっと強く食い込む。
「……そんなこと、考えてないです」
エリアスは努めて落ち着いた声で答えるが、心臓の鼓動が妙にうるさい。
こんな目で見られたのは、久しぶりだ。
レオナードが何を考えているのか、なんとなく分かってしまう。
(……まさか、殿下……本当に、嫉妬を?)
違う。そんなはずはない。
彼はそんな感情を抱くような人ではない。
だが、確かにその瞳の奥には、隠しきれない独占欲が滲んでいた。
「エリアス」
レオナードの声が、耳元に近づく。
「……どうしたら、お前は私だけを見てくれる?」
息が触れあうほどに近い距離。
その問いが冗談ではないと、本能的に理解してしまう。
(……どうして、そんなことを聞くんですか……)
言葉が出てこない。何か言えば、何かが壊れる気がした。
(俺は、どうすれば……)
エリアスの指先が、わずかに震えた。