──それから数日後。
エリアスは執務室でレオナードの書類を整理していた。
机には山積みになった書類が並び、すでに夕方の鐘が鳴ろうとしている。
「……相変わらず、容赦のない量だな」
レオナードが国事最高司令官という要職にあるため、処理しなければならない文書は膨大だった。
エリアスが手伝っているとはいえ、減る気配はない。
彼は淡々と作業を進めながら、ふとカーティスの言葉を思い出す。
『お前がレオナード様をもう一度惚れ直させるしかないんじゃないか?』
(……本当にそんなことができるのだろうか)
思考が迷い始めたその時、不意に執務室の扉がノックされた。
「失礼します」
入ってきたのは、王宮の侍従長だった。
見知った人物で、エリアスを見ると初老のその人はにっこりと笑う。
「レオナード殿下は今、こちらに?」
「いいえ、殿下は視察に出ておられます。お戻りは夜になるかと」
「そうですか……」
侍従長は一瞬ためらい、少し低い声で続ける。
「実は──御子が正式に王宮へお出でになりました」
「……え?」
エリアスは一瞬、耳を疑った。
「御子はまだ辺境の村にいたはずでは?」
「その予定でしたが、どうやら魔物が村の近くに出没したようで……急ぎ王宮に移されたようですね。神官長補佐が同行されておりまして」
思ったよりも早い展開に、エリアスは微かに動揺する。
(まさか、もう……)
「御子は、今どちらに?」
「王宮の迎賓室でお休みされています。夜には王並びにレオナード殿下に正式にお目通りする予定です」
「……わかりました。お戻り次第、伝えます」
エリアスは深く息をつくと、侍従長に向かって頭を下げた。
お願いします、と彼は去っていく。
(ついに……御子が……)
想定より早い御子の登場に、胸の内がざわつくのを止められない。
本来であれば見つかっても御子がすぐに王宮に来ることはない。
召し上げられるのは確定事項でも、少しの期間を設けて国教会側で礼儀作法を教えられたりするのが常だ。
特に今回の御子は貴族排出ではなく、平民──。大事な通過点であるはずのところが、すっ飛ばされている。
(おかしな早さだ……)
ふと窓の外を見る。
今は夕刻前でレオナードが戻るのは夜になる予定だ。
(──レオ様が戻るまで少し時間がある。見に行ってみるか……)
そう思うと、書類を手早く片付けて、執務室を後にした。
※
そうして辿り着いたのは迎賓室の前だが──どうにも入ることが出来ずに立ち尽くしていた。
頭の中ではやり取りもばっちりと浮かんではいる。
自分はレオナードの側近という立場だ。
主人が遅くなる旨を伝えに来たとすればいい。
それが侍従長から伝えられたとしていても、何食わぬ顔で「入れ替わりでしたね」と告げれば済むことだ。
けれども、扉の前から動けずにいた──のだが、中から誰かが出てきた。
「うわっ!」
「あっ……すみません!」
出会い頭にぶつかりかけたのは、自分よりは幾つか下そうな年若い青年だった。
「ハルト!急に動いてはならないと……!」
後ろから嗜めるような声を上げながら、その青年の後ろに神官姿の人物が現れる。
そちらはエリアスも知っていた。
国教会の神官長補佐であるセオドール・クラウスである。
「君は……そう、王弟殿下の」
「はい。側近であるエリアス・フィンレイです。レオナード殿下が遅くなる旨をお伝えに……」
「ああ、そうか。わざわざ済まないね。ハルト。こちらは……」
セオドールが言い終わらないうちに、ハルト、と呼ばれた青年はエリアスを覗き込んだ。値踏みするような視線ではなく、それは興味深々といった感じだ。
「ええと……あなたが御子か?」
嫌な気分とも違うが、少しばかり気圧されてエリアスは半歩引く。
セオドールがハルトの後ろで苦虫をかみつぶしたような顔で、すまない、と一言くっつけた。
「はいっ!辺境の村から参りました、ハルトです!」
そう言って微笑む彼の瞳が、一瞬だけ光を宿したように見えた。
(……御子っていうのは、やっぱり普通じゃないんだな)
少年は人懐っこい笑顔を浮かべたまま、ぺこりと頭を下げた。
金髪に薄茶色の瞳。日焼けした肌が健康的で、少し野性味すら感じさせる。
(──明るく、純粋で、レオ様が気に入りそうなタイプだ……これは……まずいんじゃないか……?)
エリアスは直感的にそう思い、こっそりため息をついた。
レオナードの気が移るとは限らないが、ハルトの明るさは確かに人を惹きつける。
──もし彼がレオナードに近づけば、それはあっという間かもしれない。
そう思うエリアスとは逆に、ハルトは目を輝かせたまま、エリアスを見つめた。
「村でも噂を聞きました。王弟殿下がすごく大切にしている方だって!」
「……え、えぇ……」
そう言いながらも、エリアスは少し気恥ずかしさを覚える。
まさか、辺境の村にまで自分の話が広まっているとは思わなかったからだ。
(それにしても……意外と人懐っこいな)
エリアスが直接、御子の誕生を目の当たりにするのはこれが初めてでもある。
以前にレオナードのお供で御子と呼ばれる人間にであったことはあるが、既にその人は年季の入った人物で物静かなタイプだった。
目の前のハルトは親しみやすく、どこか無防備だった。
「……エリアス様?」
「ん?」
「これからもよろしくお願いします!」
差し出された手を見つめ、エリアスは一瞬迷ったが、やがて静かに握り返した。
(自分とは正反対だな……)
苦笑しか出なかった。無論それは心の中でだけに抑えて顔には出さなかったが。
「それでは、私はこれで──」
「待ってください!」
背を向けかけたエリアスを、ハルトが慌てて呼び止めた。