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第17話 闇の同盟

 陽光が木材の合間から差し込んでくる。それだけを頼りに動く者がいた。


 部屋は廃屋に似た雰囲気で、光の線が分かるほどにほこりが宙に浮いている。蜘蛛の巣が張った機織り機、ボロ布に包まれた先祖が描いた絵、かつては鋭利だっただろう朽ちた槍……部屋に置いてある物は数多かったが、それは調度品とは呼べないだろう。ここにある物で家具として使われているのはベッドとナイトテーブルぐらいの物で、それにしても質素な代物だった。

 これが貴族の居館にある一室だと言っても信じる人はいまい。ましてや人が住んでいるとは。


 そんな場所に押し込まれているのはアマド・モラレス。それが彼の名であり、ケイラノスの南方貴族モラレス家の長男である。


 アマドは別に誰かに誘拐されたわけでもない。ここが彼の部屋であり、唯一の居場所だった。

 咳き込みながら目を覚ましたが、それと同時に襲ってくる苦痛こそが彼の一日の始まりを告げる鶏の声だ。



 ――よし、行こう。今日は昨日よりマトモになっているはずだ。



 枯れ木どころか枯れ枝のような腕を動かし、全身全霊を込めてベッドから這い降りる。床に着くと今度は扉へ向かって、体を引きずる。全身を使って動く様子は哀れな芋虫の姿だ。



 ――手足を折ることだけは避けないと、でも今日は調子が良いなぁ。どこまでも行けそうだ。



 途中で曇った鏡に自身の姿が映るが、それをアマドは無視した。

 その姿を記憶に残してしまえば、そこで自分は終わる。自身の容姿などとうに分かっているが、それでも見てしまえば骨より前に心が折れると直感していた。

 頭髪は無く、ミイラのような肉体。かつては上等だった服の残骸を纏う姿を、知ってはいても見てはいけないのだ。


 扉の前にたどり着く。そこに置かれていた食事をゆっくりと噛み、口内で粥のようにしながら食らう。そろそろ捨てる予定の保存糧食らしき小麦粉の塊と、余った野菜で作られた味のしないスープを延々と咀嚼する。そうしなければ消化できないからである。

 次は横の水盆に顔を突っ込んで、洗いながら飲む。犬のような姿だが、アマドに躊躇はない。最後にボロ布で顔を拭いた後、盆を元の場所へ戻した。


 そしてまた全身全霊でベッドへと戻る。ホコリを少しでも追い出すために、小窓の下ろし板を開けると彼は力尽きて眠る。後は夜に同じことをした後、再び力尽きる。これがアマドの一日であり、もう何年も続く習慣だった。


 しかし、その心根は真っ直ぐなままだった。環境を考えれば異常と言う他はない。

 そして……彼の心は何色にも染まっていない。


/


 アマドは祝福されて生まれてきた。

 中の下とは言え領地を持つ貴族に、嫡子として生を受けたのだ。様々な面倒事を思えば、下手な大貴族に生まれるよりも幸運だったかも知れない。


 何よりアマドの父である現モラレス子爵が喜んだことは最大の幸福だろう。跡継ぎであり、愛する妻から生まれた後継者。貴族社会においては紛れもない慶事であった。


 その幸福はアマドが成長したことにより終わりを告げた。

 アマドは頭こそ良かったが、異常なほどに虚弱だった。それも病でも無いのに、だ。


 モラレス子爵はそれでもアマドに期待をかけていた。剛強な戦士を多く排出してきた一族であったため落胆はしたが、世の中全体を見れば剣が重いと言うような貴族子弟は少なくなかった。

 アマドは賢い。一族からは異端でも穏やかで領民のためを思って生きる領主がいても、それほど悪いことではあるまい。長子相続が望ましいと考える旧弊を持つ子爵だったが、世の移り変わりを認められる程度には器が大きかった。


 だがアマドの虚弱体質はモラレス子爵の予想を大きく上回っていた。座って執務を行うどころか、横になることすら苦痛な有様だった。ここから子爵も精神にある種の変調を来し始めた。

 それはアマドの成人儀礼において爆発した。ただ先祖伝来の剣を掲げて宣誓するだけの、一族の儀式においてアマドは剣を持ち上げることすらできなかった。ここまで来ると嘲笑されるを通り越して、周囲がアマドに向ける視線は死人を見る目のそれだった。


 その日からモラレス子爵はアマドに声をかけることも無くなり、食事を共にすることも無くなった。使用人達はモラレス子爵がアマドを見限ったと思ったが、しばらくすると違うことに気付いた。

 モラレス子爵はアマドを落伍者として扱っているのではない。彼の頭の中ではアマドという存在が消え去っているようだった。あたかも最初からいなかったように……アマドが声をかけようとも反応自体しない。嫌そうな顔すらしない。モラレス子爵にとって、アマドは存在しなかった。自分の種から生まれた子供がこんなはずはない……その思考が膨張を続けた結果としてモラレス子爵もまた、異常者になったのだ。


/


 そうして行き場を失ったアマドだが、その体質ゆえに市井に降りることなど不可能だ。しかし己の部屋に留まっているのも危険だ。モラレス子爵に新しい跡継ぎができれば、長子の部屋を占拠する不審人物としか映らないだろう。理不尽にもほどがあるが、モラレス子爵の世界ではそうなのだからどうしようもない。


 救いの手は意外なところからもたらされた。下働きの者達が執事にかけあって、何とか絶対に子爵が来ない部屋にアマドを移して、日々の糧だけを与えることを約束させたのだ。下働き達が格別アマドを好いていたわけではない。彼らも家族が当然ある。彼らにしてみれば親子関係として異常すぎて、見るに堪えなかったため最低限の慈悲を願ったに過ぎない。


 アマドは賢かった。現在の境遇は確かに下働き達のおかげではあるが、その裏に歪んだ優越心があることを読み取った。本来、自分たちを酷使する貴族が犬以下の有様で生きており、それが自分たちによるものだという暗い優越感だ。



 ――だが、どうすることもできない。



 唯一の武器である賢さも、学ぶ教材が無ければ知恵に昇華できない。心を壊さないよう、精神状態を保つことには役立ったが……そこから先に行けない。

 絶望すら抱けない環境の中で少年が真っ当に育つはずもない。次第にアマドは独特の思考をするようになっていく。元々の性質なのか、その思考は歪みではなく真っ直ぐに伸びた。異端ではあっても、奇形ではなかった。


 その袋小路が壊される日が来てしまった。


 奇妙な音と、声でアマドは浅い眠りから覚めた。ホコリを少しでも出すために開いた小窓。そこに腐り始めている・・・・・・・カラスが留まっていた。それをボンヤリと見つめるアマドに、カラスは声をかけた。



『アマド。アマド。ツヨイ、ニクタイ。ホシイ、カ?』

 ――それは勿論、欲しい。



 声を出すのもおっくうだったために、頭で浮かべた言葉。驚くことにカラスはそれに応えた。



『ワタシ、カノウ。アマド、ナカマニ、ナルナラ。ソノカラダヲ、ツヨクデキル』

 ――それで、私が差し出す物は? 魂か?



 これが取引だと理解できているアマドに、カラスは嬉しげに揺れ動く。その弾みで、カラスの片目はどろりと垂れ下がってしまったが気にしていないらしい。



『カワリニ、イエヲウラギレ。チチヲウラギレ。ソシテ、エイエンノ、ユウジョウヲウケイレロ。ワタシヲステレバ、オマエノ、アタラシイイノチモナクナル。ドウイセヨ』

 ――同意する。



 契約が成立したことに、カラスは羽を広げて答えた。

 カラスはここしばらくの間、アマドを観察していた。そして、直感した。コイツは自分と・・・同じだと。



『ミッツノヨルガ、スギタアト、ココヲアケテオケ……ワタシ、アルゴフ。オマエヲ、カエニクル』

 ――待っている。



 アマドはまっすぐに育った。周囲から求められることに応えたい。

 そして……善でも悪でも、一度でいいから選んで動きたい。


 長い透明な生活の間に、アマドは善悪が存在しないと考えるようになっていた。

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