一矢が目を覚ますとベッドの上で、そこは薄暗い病室のような場所だった。
部屋が暗いだけでなく、病院というには全体的に汚いというのが直感的な印象だった。
「目が覚めたね? 傷は塞がっているはずだから、早速退院の手続きをしてもらおうかな」
一矢を上から不意に覗き込んだのはこれもまた薄汚れた白衣を身に着けた、目の下の隈が目立つ陰のある女性だった。
一矢は思わず身体を起こす。
「それじゃあ夜間対応料。緊急手術料。一週間の入院費用。迷惑料で五百万円ね。支払いは現金以外受け付けないから」
「え!? ご、五百万って!? それにここはどこですか!? あ、あとあなたは誰ですか!?」
「えーと、闇医者? だけど上客の紹介だから特別料金で対応してあげたのに、不満?」
白衣の女性は一矢の文句を心外だとでも言うように顔をしかめる。
「だって俺は、その……身寄りのない学生で、五百万円なんてとても……」
「はあ? 君さあ死神でしょう? そうでもなきゃあんな大穴即死だって」
死神。
一矢はあの夜のことを思い出す。
ドクトゥール・スペクトルとの死闘。そして姉、
慌てて患者衣をめくるとスペクトルに開けられた穴は傷一つ残らず塞がっていた。
「死神ならいくらでも稼げるでしょ? 響子みたいに表向きの仕事をしてればいつかは返せるって。利息は払ってもらうけど。それとも治験で手っ取り早く稼ぐ? これが同意書で……」
椿響子。
その名前を聞いて思い出す。椿響子。
一矢と契約してスペクトルと全力で戦ってくれた死神探偵。
彼女は無事なのか。
何故命懸けで一矢を助けたのか。
それに「死神になった」とは一体どういうことなのか?
一矢の心中で疑問が次々と沸き起こる。
「椿さんは無事なんですか?」
「無事も何も。今来たところですが」
スーツ姿の椿と黒いセーラー服を着たつぐみが病室へ入ってきた。
「アオイ。私の依頼人を困らせるのはほどほどにしてくれないか?」
「ならこんな新米の死神がどうやって治療費を払うっていうのさ」
アオイと呼ばれた闇医者と椿は旧知の仲のようだ。
「椿さん。無事だったんですね」
「それはこっちの台詞です。そして私も金の話をしにきたところでして」
そうだった。依頼をするときに話に出てきた「報酬」。
獲物の質による成功報酬だという話だった。
あれだけの強敵、きっと多額のものになるに違いない。一矢は身構える。
「あの、俺、お金はあんまり……」
「成功報酬として五万円を頂戴しに参りました」
「五万……!?」
椿の提示した金額に一矢は拍子抜けした。
「ご不満ですか?
理由を聞いて一矢は安堵する。
(そうだ。この人は死神なんだ。人間とは違う価値観で生きてる。報酬もきっと『契約』を成立させるための要素にすぎなかったんだ)
「もっとも、スペクトル討伐にかかった費用についてはまた別になりますが」
「え……?」
「倉庫の修繕費用。“聖火”調達にかかった費用。弾薬費。破損した銃器代。つぐみがよこせと騒ぐ危険手当……合わせて千五百万円になります」
一矢は目を白黒とさせながら、椿の顔と手にした請求書を交互に見比べた。
「千五百五万円の請求書です。お受け取りください」
椿はスペクトル討伐にかかった費用を細かく取りまとめた紙の束を一矢に渡そうとする。
「ちょっと、ちょっと待ってください! 治療費が五百万円で、討伐費用が千五百万円!? 払えるわけないじゃないですか!?」
「千五百五万円ですが。ただ持ち合わせがないということであれば私に一つだけ案があります」
一矢の顔が青ざめていく。つぐみとアオイは顔を見合わせ、見世物でも眺めている様な笑みを浮かべる。
「私の事務所で助手として働いていただく。あなたは人間の身で高位の死神を殺したことで、『世界の管理者』からその力を認められ、死にゆくはずの人間から死神として転生を果たしました。身体に以前とは違う力が漲るのを感じるはずです。死神の生は長いですからいずれは返済できるかと」
「俺が死神……!? そんなわけ……」
一矢の脳裏にスペクトルの死に際の台詞が蘇る。
(『こちら側』に足を踏み入れたことを後悔するといい……)
(死神に転生したお前もいずれは……)
ただ身体中を巡る活力とも違う不思議な力がみなぎるのを感じる。
「でも、それは俺が椿さんの力を借りただけで……俺はただの人間で……」
「ほーれ」
アオイが手にしたリンゴを投げてよこす。
一矢が咄嗟に受け止めようとすると、そのリンゴは果汁を散らしながら粉々になった。
その事実は一矢が今までの一矢とは違う何かに変貌したということを雄弁に物語っている。
(本当に俺が死神に……!? じゃあ俺はもう人間じゃないってことかよ!?)
「『世界』は人間が死神を殺したという事実しか認識せず、過程は考慮しません。おめでとうございます。これで家族の仇を取っただけでなく、借金の返済ができますよ」
(家族の仇を取るために借金をすることになったんだけど……)
「というわけでー。よろしくね! 助手二号!」
つぐみが一矢のベッド横に駆け寄り親し気に話しかける。
「アオイ。治療費は私が肩代わりする。それでいいな?」
「死神の身体で治験がしてみたかったけど、しょうがないね」
一矢の預かり知らないところで話が勝手に進んでいく。
「決まりだな。お客様待遇はこれで終わりだ。退院手続きが終わったら、まずは死神の戦闘法を徹底的に叩きこんでやる」
「じゃねーアオイさん!」
二人は嵐のように立ち去って行った。
一矢はこの騒動で忘れていた大学の学費や、全く試験を受けていなかったという事実にめまいがしてベッドに倒れ込む。
一難去ってまた一難。
彼は情勢の一変した死の世界で、死神や数多の異形たちとの血みどろの戦いに身を投じることを知らない。
「死神なら大鎌とか、出るんですかねえ」
「さあねえ。響子は銃だけど」
当人はまだアオイとのんきな会話をしていたが。
千年級の死神を殺した人間という噂は瞬く間に広がった。
ほとんどの死神はそれを相手にしなかったが、ごく一部の死神たちの間で一矢の存在は話題の種となった。
噂好きな死神たちで構成される