イリアは禁書庫で得た手がかりを胸に、ルカと並んで大図書館の出口を出た。
(
けれど、ノエルが首を縦に振るかどうかも、まったくの未知数だ。不安が胸に落ちる。
つい俯いてしまっていると、ルカが「大丈夫よ」と凛とした眼差しを向け、微笑した。
(……不思議。ルカがそう言うと、本当に大丈夫な気がしてくる)
つられてイリアも頬を緩めてしまう。
「行動を起こす前から、弱気になったらダメだよね。とにかく一度、ノエルと話してみないと」
「ええ。イリアのことが大好きな
「うん。こんなところで立ち止まっていられないね」
イリアは胸に輝くペンデュラムを握りしめ、前を向いて歩む。教団本部へ続く石畳の道を。
ところが、大図書館から出て間もなく──。
「キーン」と、耳朶を騒がす不快な音に、イリアは襲われた。
(何……?)
思わず足を止める。耳鳴り……だと思われるが、音の波長が強まり、ズキンと頭が痛む。
こめかみを押さえると、ルカが訝し気に「どうしたの?」と、イリアの顔を覗き込んだ。
次の瞬間──。
地面が微細に振動した。
建物や街灯がわずかに揺れている。
「また地震? 最近多いわね……」
ルカの呟きに、イリアはこめかみを押さえたままうなずく。
幸いにも大した揺れではなく、程なくして収まったが──。
今度は別の異変を目にする。
突如として、道行く人が地面へ倒れ込んだのだ。それも一人ではなく、大勢の人が一斉に。
「なに? どうしたの……!?」
目を見開き、狼狽えるルカを追い越して、イリアは近くで倒れる女性に駆け寄った。
「大丈夫ですか!?」
肩に手を添えて呼びかける。だが、返って来るのはくぐもった呻き声。
イリアは原因を探るため、魔術を使って
──すると、女性の体内を巡るマナがあまりにも少ないことに気付く。
(これは……まさか、マナ欠乏症?)
弾かれるように周囲を見渡すと、倒れている人たち全員に同じ兆候が見られた。
また、次々と力を失って崩れ落ちる人々の姿が目に映って、イリアは唇を噛む。
「イリア、どう? 何かわかった?」
遅れてやって来たルカを見上げ、眉をひそめて答える。
「……多分、マナ欠乏症だと思う」
「マナ欠乏症って……魔術の使い過ぎとかでなるやつよね?」
「うん、こんな大勢が同時に倒れるなんて、普通では考えられないことだわ」
なにか良くないことが起きているのではないか、と嫌な胸騒ぎがした。
「とにかく、治癒術をかけてみる。ルカは出来るだけ倒れた人を一カ所に──」
そう言いかけたところに「魔獣が出たぞ!」と叫ぶ声が響く。
イリアは驚いて顔を上げた。叫びを聞きつけた騎士が、街の方へ向かって駆けて行くのが見える。
さらには、イリアとルカの
「……イリア、どうする?」
「魔獣を放ってはおけない。でも、ここに倒れてる人たちをこのままにすることも出来ない。……だから、ルカ。魔獣の討伐は任せていい? 私はここで、救護に専念するわ」
ルカは一瞬、何かを言いかけたが──
「その代わり、絶対に無理はしないこと。なにかあったら、すぐに連絡するのよ」
ルカがそっと手を取って「いいわね?」と詰め寄りながら、
こんな時に不謹慎ではあるが、ほど近い距離に鼓動が跳ねた。
この胸の高鳴りに気付かれないよう、平静を装って答える。
「わかってる。ルカも、もしもの時は私を呼んで。無理はしないでね」
「ええ。それじゃあ、行ってくるわね」
ぬくもりの余韻を残して、ルカの手が離れていく。去り際に笑顔を見せた彼女の背は、あっという間に小さくなり、見えなくなってしまった。
「……気を付けて」
イリアは不安でいっぱいになりそうな心を、一度目を閉じて静めた。こうしている間にも苦しんでいる人たちがいる。あちこちで呻き声を上げ、地面に伏して助けを待つ人たちが。
「大丈夫、私が助けるから……」
イリアはすっと息を吸い込み、歌う。
『──紡ぐは慈愛と恵みの賛歌
こぼれる雫よ 頬を撫でるは 愛の御手』
人々へマナを分け与えるイメージで、治癒術の淡い旋律を奏でる。応急処置だが、なにもしないよりはマシだ。
『あふれる想いよ 愛しい子らを どうか優しく包んで
傷つきし者へ癒しを 嘆く者へ光を……』
イリアは
この歌声が一人でも多くの人の救いになると信じて。
❖❖❖
──どれくらいの時間、そうしていたかはわからない。
気付けば辺りには、救護に駆け付けた騎士や神官の姿があり、救援活動が始まっていた。
(……良かった、これなら大丈夫かな)
イリアは歌を止め、安堵の息をつく。
そこへ、慌ただしい足音を立てて近付く一人の司祭の姿を捉えた。
彼はイリアの前へ来るなりひれ伏し、地面に額をこすり付ける。
(この人確か、ジョセフ
唐突な行動に驚いていると「レーシュ様、お願いです!」と彼は声を荒げた。
「どうか、ノエル聖下をお止めください……! この事態は、聖下が
「え……ノエ──教皇聖下が? そんな、まさか……」
背筋が凍りつく感覚に陥る。心当たりがない、という訳でもない。
(私を
イリアは震えそうになる手で胸のペンデュラムを握りしめる。
「このままではさらなる犠牲が出ます。猊下は、ノエル聖下の姉君であるレーシュ様なら……と仰っていました。どうか、どうか……!」
司祭が必死に訴えかけて来る。
イリアにとっても目の前に広がる惨状は看過できない。もしこんな事態を引き起こした理由が自分にあるなら、なおさらだ。
「わかりました。私が説得してみます。ノエルはどこに?」
「恐らく、祈りの間へ……」
イリアは決意を固めて立ち上がる。そして、ノエルのいる場所を目指して駆け出した。
心拍数が上がり、焦燥感が胸を締め付ける。
脳裏を巡るのは「どうして?」という疑問ばかりだ。
こんなことを望んだことは一度としてなかった。誰かを犠牲にするやり方は、許容できない。
イリアは瞬きをするのも忘れて走った。息が上がって苦しくて、肌が汗ばんで髪が張り付く。
それでもノエルを止めなければという一心で、大聖堂へ続く回廊を走り続けた。
❖❖❖
ノエルに会えたのは、オーラム神殿の
高い天井を支える太い丸柱が間隔よく立ち並び、ステンドグラスの窓に囲まれたそこで、純白の
傍には聖騎士の鎧を纏ったアイゼンと、漆黒のフリルドレスを揺らすアインが並び立っている。
「ノエル!!」
手を伸ばして名を呼ぶ。と、ノエルは足を止め、細い銀糸の髪を靡かせて振り返った。
「……姉さんか。なにしに来たの?」
角度によって色を変える
見つめられてイリアは身震いした。視線に一切のぬくもりが感じられない。
(知らない……こんなノエル、見たことがない)
初めて見せる闇を孕んだ弟の面差しに、イリアは戸惑った。だが、ここで怖気づく訳にはいかないと、頭を振って恐怖を振り払う。
「聞いてしまったの、貴方がなにかしたせいで、聖都が大変なことになっているって。もしそれが私に関係することなら……お願いだから、止めて! 私は、自分の代わりに誰かが犠牲になることも、ノエルが手を汚すことも望んでいないの……!」
ペンデュラムを強く握りしめて思いを伝える。
それを聞いたノエルが、表情を変えぬまま大きなため息をこぼす。
「……姉さんの意思は関係ないよ。僕は僕が最善だと思った道をいく」
「お願い、私の話を聞いて。こんなことしなくても、
「アイン、ここは任せた」
言い切る前に、淡々と会話は打ち切られ、ノエルが祈りの間の扉へ手を添えた。
「待って、ノエル!」
追い縋ろうとするイリアの視界に、
「レーシュ、ノエル様の邪魔をしたらだめですよ?」
アインが行く手を阻んだ。
「アイン、そこをどいて。どかないなら、力ずくでも……!」
「無駄ですよぉ? ノエル様は止まりません。だって、レーシュより大切なものなんて、あの方にはないですから」
微笑まじりの悪戯っぽい口調に、怒りがこみ上げた。彼女の正確は知っているが、今日ほど憎らしく思えたことはない。
瞳を細めて睨むと、アインが頬を染めてにたりと笑った。
「あは! レーシュの怒った顔、とっても素敵♪」
「ふざけないで! 私は、真剣に……」
「そうですねぇ、どうしても止めたいなら、レーシュが
イリアは反論できず、押し黙る。一度は自分も宿命を受け入れ、覚悟した。
けれど──ルカとの約束がある。未来への一筋の光明も見えた。ここにきて女神の血族として当然の、美徳と思っていたはずの〝自己犠牲〟の精神は揺らいでいる。
そんな一瞬の迷いをアインは見逃さなかった。彼女は「ふふっ」と微笑み、細い指先を伸ばしてイリアの胸元に触れる。
「悩んでいるのなら、私に身を委ねて? 夢の中で、悦楽に浸っている間に終わらせて差し上げます」
「しまった」と思った時にはもう遅かった。アインの幻術が心の隙間に入り込み、イリアの意識を絡み取ってゆく。
抵抗を試みるが、視界が暗転して、身体が泥へ沈むような感覚に陥る。
(……だ、め……、……ルカ……!)
薄れゆく意識の底で、イリアは必死にルカの名を呼んだ。
けれどもいくら呼んでも、叫んでも、声にならない。助けは来ない。
「……さぁ、安心してお眠りくださいな」
鈴のように可愛らしくも、艶やかなアインの言葉を最後に、イリアの思考はぷつりと途切れた。