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第十六話 曇天に響く讃美歌≪シャンティール≫

 ルカは空を見上げる。午前中から続いていた霧雨がすっかり止み、ホド連邦共和国の首都ラフィールには柔らかな日光が差し込んでいた。


 革新的なマナ機関が林立する街の中心部、セレスティア・タワー前の広場に特設された舞台に、イリアが立っている。


 ルカは少し離れた位置で警戒に目を光らせながら、その姿を見守っていた。

 建物の高架通路から大勢の市民が降りてくる様子が視界に入り、塔の周囲は随分な人だかりになってきている。



(イリアの賛美歌シャンティールをみんな心待ちにしているのね)



 ラフィールでは魔獣の被害拡大と同時に、帝国の陰謀など暗い話題が頻発していた。そんな中で〝女神の歌姫レーシュ〟が歌を届けに来たとあって、感心を寄せているのだろう。


 イリアが深呼吸して、ペンデュラムを胸元に握りしめる。

 そして、銀糸の髪を軽く揺らすと、微笑みを浮かべてつやめく唇を開いた。

 次の瞬間。空気が澄んでゆくように、透き通った高音が響き渡る。



『柔らかな朝の光が

 瞼をそっと撫でてゆく

 暖かな気配に混じる花の香り

 胸の奥に小さな奇跡を咲かせて』



 イリアの歌を聞き慣れたルカも、耳を奪われて聞き入ってしまう。



『冷たい雨に濡れた日々でも

 君を想うだけで笑顔こぼれる

 触れ合う指先に

 そっと芽吹く恋心』



 柔らかでいて強い声。何度聴いても心が震えた。

 舞台前の観客たちが、天上の旋律に引き込まれて息を呑んでいる。



『花が咲くように君を想うたび 優しさが心に広がるよ

 傷ついた過去さえ抱きしめてくれる 癒されてく

 君のまなざしが 私にもう一度羽ばたく勇気をくれる』



 しんと静まり返った空間に、優しい歌声が染み渡っていく。



『君と見る景色が どんな明日でも

 きっと色鮮やかに染まるから

 そっと手をつないで 未来を描こう

 咲き誇る季節へ ふたりで 歩き出す』



 空を駆ける風までもが、彼女の音色に耳を傾けているかのようだった。

 この歌声こそ、彼女が〝女神の歌姫〟と呼ばれる所以であり、ルカの支え。


 この街の住民たちがどんな表情をしているか——見ずともわかる。頬に涙を浮かべる人、ほうっと胸を撫で下ろす人、ただ無心で聴き入る人。


 イリアの歌が持つ力は、不安を和らげ、傷ついた心を癒し、希望を与えてくれるのだ。



(……やっぱり、イリアはすごいわ)



 ルカは思わず聞き惚れてしまったが、気を引き締め直す。

 自分はイリアの騎士。惚けていて彼女に万が一のことがあっては取り返しがつかない。


 念のため、と周囲を見渡した。その時だ。



「……え……?」



 観衆の中にほんの一瞬、懐かしい姿を見た。ルカは反射的に目を凝らす。人ごみの向こう、建物の陰にローブを纏った鮮やかな金髪の人物が消えてゆく──。振り向きざまに見せた瞳は紅眼ルージュ



(まさか……)



 ルカは息を呑んだ。イリアの調べが耳に優しく響く中、心臓が嫌に騒ぎ立てる。

 錯覚にしてはやけに鮮明だ。そうじゃないなら、あれは誰だというのか。



「ゼノン……?」



 名前を思い出すだけで、心が軋んだ。あのディチェス平原の争乱以来、心の奥底に封じ込めてきた過去。

 あの人影は確かに彼に見えた。長い時間を共に過ごしたのだ、間違えようがない。



(でも、あの時、私が……死なせてしまったと、思っていたのに……!)



 あれは本当にゼノンなのか。だとすればどうやって、今までどこにいたのか、どうしてエクリプス教団に名を連ねているのか、確かめたいことたくさんあった。



「……待って!」



 ルカは衝動を抑えきれず、観客をかき分けてその姿を追いかける。

 冷静な判断を保たなければと思うのに、気付けば足が勝手に動いていた。


 一瞬振り返ると、動揺しながらも旋律を紡ぐイリアの姿が目に入った。

 ルカは後ろ髪を引かれながらも「ごめん」と呟いて、人ごみを抜けていく。


 どうにか追いすがろうと、一帯をくまなく探す。

 すると、さっきほど見たローブを纏った人物が雑踏の先を歩く後姿を見つけた。


 ルカは必死に追いかける。

 だが──広場から通路に出たあたりで、人の流れに阻まれ、見失ってしまう。



「くっ……!」



 空回りした焦りに心臓が高鳴る。辺りを見回しても、それらしき金髪の人物はいない。

 頭に上った血が、引いていくのを感じた。


 冷静に考えれば、生きているはずがないのに。

 でも、幻だとはどうしても思えなくて、ざわざわと不安と疑念が胸に絡まって落ちる。



「ゼノン……」



 ルカは薄暗い雲のかかる空を仰いで、かの人の名を呼んだ。


 不意に背後から足音が近付く。振り返ると、イリアが息を切らしながらこちらへ走ってきていた。



「ルカ……どうしたの……? 急に飛び出して……」


「ごめん、イリア……変な人影を見て、確かめたかっただけ……」



 ルカは取り繕って微笑もうとしたが、うまく笑えない。きっと顔が引きつっている。

 イリアが戸惑った様子で「そっか」と呟いて視線を落としたのがいい証拠だ。



「……まだ、歌の途中よね。とりあえず話は後にして、戻りましょうか。みんなが待ってるわ」


「うん……」



 ルカは何か言いたそうなイリアの手を取って、来た道を引き返す。


 ──その時。地面がかすかに揺れた。


 地震だ。揺れは数秒で止んだが、まわりがざわついている。予測できない自然の揺らぎは、人々を不安にさせるには十分だ。

 特に今は、良くない空気が漂っているので余計だろう。



(何だか……嫌な感じね)



 ルカは胸騒ぎを覚えた。

 そんな不安を裏切らず、事件は起きる。



「キャアアアッ!」


「魔獣だ! 逃げろ!」



 進行方向から悲鳴が上がった。舞台のある広場の方からだ。

 イリアと目を合わせて頷き合ったルカは、駆け出す。

 逃げる人波に逆らって走り、見えた光景に唇を噛んだ。



「どうして、街中に……!」



 賛美歌シャンティールを楽しむための会場が一変、地獄絵図へ変わっている。


 黒い靄を纏った犬のような魔獣が複数出現しており、恐慌状態の観客を襲っていた。


 褐色の毛を持ち〝魔犬〟にしてはやけに大きい。鋭利な刃物のように鋭くて長い尾で、観客を守ろうと立ち塞がった兵士を一蹴している。



「ルカ、あそこ!」



 イリアが叫び指差した先に、立ちすくんだ小さな少女に噛みつこうとする魔獣が見えた。

 ルカは刀を抜き放ち、魔獣に向かって地を蹴る。



「やらせないわ!」



 魔獣の横から一閃。

 背に命中するが、皮膚が硬く、振り抜いた刃が金属音を鳴らして火花を散らした。


 刹那、反撃に転じた魔獣の尾が迫り、ルカは後方へ跳ぶ。


 簡単に仕留められる相手ではなさそうだ。

 魔獣を睨んだまま、少女は無事だろうか──と横目で見やると、一連の攻防の間にイリアが保護していた。


 すぐさまイリアが唱歌を奏で始める。



『紡ぐは慈愛の恵みと堅牢けんろうたる守りの讃歌

 慈愛の天使は舞い降りた

 英雄はかかげる

 七つの加護もつ堅牢けんろうなる盾……』



 あの文言は、治癒と防御を兼ねた魔術だ。澄んだ響きがマナを煌めかせ、傷ついた人たちを守るように光の盾が形成されてゆく。

 あちらは任せて大丈夫だろう。



「お前たちの相手は私よ!」



 ルカは声を張り上げて魔獣の注意を自分に向ける。

 獣が低く唸り声を上げながら牙を剥くのが見えた。射向けられた赤い瞳からは殺意が滲んでいる。


 凄まじい跳躍力で襲いかかってくる魔獣を、ルカは刀を構えて迎え撃つ。

 振り下ろされた爪を受けると、ガキン、と鋭い衝撃音が響いた。そのまま刀で|つつ、斬り払う。


 すると、腹は背と違いすっと刃が通り、赤い雫が舞った。



(なるほど。ここが弱点ってわけね)



 致命傷を与えることはできなかったが、十分だ。弱点さえわかってしまえば、どうとでもなる。


 左右から新たに二体の魔獣が迫る気配。ルカは刀を垂直構え、身体を捻って円を描きながら斬り込んでいった。一撃だけでなく、間髪を入れず畳みかける。



『傷付きし者に慈愛を 迫る侵略者に盾を

 たたえよ 天使 慈愛の恵み

 たたえよ 英雄 堅牢けんろうなる盾』



 獣が断末魔の悲鳴を上げて地面に崩れ落ちる背後から、優しくも凛としたイリアの旋律が響いた。聞く人の心を落ち着かせ、戦いの恐怖を和らげる歌が──。


 ルカは耳朶を撫でる女神イリアの歌を聴いて湧き上がる力を感じながら、勢いのまま次々と魔獣を仕留めて行った。



 ──こうして、長くも短く感じられる時間の中で、ルカは広場の魔獣を一掃する。


 喧騒が静寂へ変わりゆくと、人々の怯えた視線がルカに集まった。

 ひそひそと囁く声。安堵の声も聞こえるが、〝恐れ〟の感情が色濃く読み取れる。


 彼らも気付いたのだろう。

 ルカが〝破壊の騎士〟と呼ばれる存在であることに。


 だが、気にすることなく刀の血糊を落として鞘へ収めると、自然に讃美歌シャンティールへと繋がれたイリアの歌声に耳を傾けた。

 もう間もなくフィナーレを迎えるだろうが、その間にルカは思案する。


 エクリプス教団の暗躍と、ゼノンの影について。



(……教団の指導者と謳われる彼らしき人物の姿を見かけた直後、魔獣が現れるなんて。これは偶然なの?)



 昨晩、イリアに聞いた話では〝魔獣〟は〝魔神まじん〟──創世神話では〝闇〟として語られ、この世界を侵略しようと目論んだ〝神〟の先兵なのだという。


 〝惑星延命術式女神のゆりかご〟はその魔神の干渉から世界を守る為に、女神が遺した結界。



(エクリプス教団が魔獣を操っているという噂もある。やっぱり無関係じゃないわよね……)



 歌の終わりにわっと歓声が沸いた。直後の襲撃を忘れようとするかのように盛大な拍手が響き、鬱々とした空気を切り裂いてゆく。


 けれども、視界に映る空は曇天どんてん。光明の隙間がないほど分厚く、不透明な先行きを暗示しているかのようだった。

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