夜の闇が深まった頃、イリアはルカに連れられて、音を立てぬように部屋の外へ出た。
廊下の照明は最低限しか灯されておらず、不気味な空気が漂っている。
このままここにいる選択肢はない。
すぐに逃げ出さなければならない状況だというのに、足が震えて思うように動かせなかった。
王が自分にした行為を思い出すたび、背筋が凍る。
あの時、ルカが駆けつけてくれなかったらどうなっていたか……考えたくもない。
「イリア、こっち」
廊下の先で物陰に身を潜めていたルカが、小さく手招きする。
彼女の
イリアはこくりと頷き、彼女のもとへ駆け寄る。
「大丈夫? 怖い思いをしたばかりなのに、無理をさせてごめんね」
控えめに囁く声が耳に届く。イリアは首を横に振って、笑おうとした。
「私の方こそ、ルカにこんな無茶をさせて……ごめんね。だけど、ありがとう」
上手く笑えていたか、わからない。
ルカは「私がやるべきことだもの」と告げて、そっと手を握ってくれた。
イリアはルカと息を合わせて城内を進み、物陰から物陰へ移動する。
王宮の騎士が巡回しているが、配置はまばらでどこか余裕のない様子だった。
(もしかしたらルカが私のところへ来るまでに、暴れたのかな……?)
そんなことを考えながら、警備の目をかいくぐり、なんとか城門前へと出る。
夜間警備の兵が集まり、通行門は一つだけ。厳重な見張りの目が光っていた。
ひとまず、身を低くして木陰に身を隠す。
ルカが小さな声で「どう突破しようかしら」と逡巡している。
目視できる範囲だけでも、優に十数名。
(ルカの実力なら簡単に片が付くはずだよね。でも、無関係な相手を傷つける意思はなくて……それは、私も同じ。それなら──)
イリアは意を決する。
恐怖は拭えないが、立ち止まってはいられない。
「歌で、眠らせてみる。うまく行けば通れるわ」
「危険じゃない?」
「……大丈夫。私は歌によって魔術の奇跡を為す〝
イリアは小さく深呼吸を繰り返して、心を落ち着かせる。
迷いや恐怖を音に乗せてしまわないように。
そして、柔らかな旋律を紡ぐ。
『月影を追って 静かに広がる光の羽根
幸せの夢へと誘う 夜の優しいささやき
儚くも響く音の調べが
優しき眠りを包みこむ
まどろむ心を抱きしめて
風はそよぎ 微笑む
そっと瞳を閉じて 愛し子よ
ふたつの月に照らされた 宵の羽根
すべてを忘れて やすらぎへと誘う
輝きを抱いて眠れ 黎明の時まで』
歌声がマナの風に乗って、広がってゆく。
すると、兵士の動きが緩慢になり、次々に地面へ膝をついた。
これは歌を応用した魔術であり、イリアが標的と定めれば、耳を塞いでいようと関係なく作用する。
「あらら、屈強な衛兵さんたちが形無しね」
「……効果時間が短いのが欠点だけどね。今のうちに行こう、ルカ」
「ええ、行きましょう」
イリアは歌を止めてルカとうなずき合う。
人目をはばかるように門を抜けて、夜の街へ駆け出した。
しばらく走り続け、人気のない路地を迂回した先に見つけたのは、小さな宿屋。
カンテラに似た魔術器の灯された玄関先へ足を踏み入れると、店主らしき女性が「あら、女神の歌姫様……?」と息を呑むように見上げてきた。
聞けば、イリアが昼間、
すぐに「訳ありですね……何も聞きませんよ」と小声で招き入れてくれた。
「助かります。ありがとうございます」
イリアとルカは店主に頭を下げ、一部屋だけ借りる。
宿の二階、突き当りの部屋へ案内され、中へ入ると「私が見張っておくから、イリアは休んで」とルカがベッドを勧めて来た。
「ルカは、休まなくていいの?」
「一晩くらいどうってことないわ。いいからほら、寝ちゃいなさい」
「うん……」
けして広くはない部屋の隅にあるベッドへイリアは横になる。
ルカは入口の扉の横、壁に背を預けて窓の外へ目を光らせていた。
眠気はある。身体も疲労感を訴えている。もぞもぞと毛布をかぶって、イリアは瞼を閉じた。
──けれど、恐怖が蘇る。
城での出来事がフラッシュバックして、身体が震えた。
嫌に鼓動が早くなり、息苦しくなって、目を瞑っても眠れそうにない。
イリアは毛布から顔を出し、ルカへ視線を送った。
「……ルカ、ルカ」
「ん、どうしたの?」
「……隣に、いてくれない……? 眠れなくて……」
正直、恥ずかしさもある。でも、一人では寝付けそうになかった。
ルカは驚きに頬を赤らめながらも「もちろん」と微笑んで、ゆっくりと隣へ寝転んだ。
「これでいい?」
「うん。……ぎゅってしても、いい?」
「それで安心して眠れるなら、いくらでも」
ふわりと柔らかい毛布をかけて、イリアはルカに抱き着く。
こんな風に甘えるなんて、子どもみたいだと思う。
けれど、彼女の体温と鼓動が聞こえて安心できた。
おまけに、ルカが髪を梳くように頭を撫で始める。
くすぐったくて気恥ずかしいけど、とても心地よかった。
「おやすみ、イリア。心配しなくても、そばにいるから大丈夫よ」
優しく目を細めて微笑む彼女を瞳に焼き付けて、瞼を閉じる。
包み込むぬくもりが恐怖を遠ざけ、イリアの眠りを守ってくれた。
朝まで、ずっと──。
❖❖❖
翌朝、イリアは鳥のさえずりで目を覚ました。
ルカはすでに起き上がっており、窓の外を気にしている。
「……何かあったの?」
尋ねながら、眠り目をこすって体を起こす。
「外が騒がしくてね。『女神の歌姫が国王を害した』って噂が広まってるみたい。兵士たちが捜索しているって」
無意識に肩が跳ねる。
イリアは胸のペンデュラムを握りしめた。
あの衝撃的な夜からそう時間が経っていない。
国王を気絶させた自分たちを追うのは当然だろう。
不安が胸に渦巻いた。
イリアもルカの横へ移動し、外の状況を伺うと確かに。慌ただしく動く人影が見えた。
「ルカ、どうしよう……?」
「兵士が街を詮索している以上、ここでじっとしているのは危険だわ」
「でも、
「そうね。強行突破は難しいでしょう。移動するにしても、他の手段を考えないと」
すぐにこれと言った案が思い浮かばない。
むしろ、役目を果たせなかったことを咎められる気がした。
(……ノエルに相談してみる?)
仮にも教皇の座にある弟なら、手を貸してくれるのではないか。
一瞬、淡い期待を抱いたが「やっぱりダメ」と思い至り、首を振る。
(そんなことしたら、あの子の立場が悪くなる。今でさえ、不自由な思いをしているのに)
自分の不始末をノエルに負わせるわけにはいかない。この件はルカと二人で解決しなければ、と心に決める。
そうして、どう動くか悩んでいると──。
「もう。レーシュは意地っ張りね。素直に『助けてー!』ってノエル様にすがればいいのに」
と、鈴を鳴らしたように甲高く可愛らしい声が、どこからともなく聞こえて来た。
ルカがイリアの前へ出て、警戒態勢を取る。
すると、部屋に作られた影から、暗霧が立ち
左右でおだんごに
「貴女、一体……!」
反射的にルカが刀の柄に手を添える。それをイリアは「待って!」と、制した。
ルカが訝し気にこちらを見やるが、「大丈夫だから」と告げて、前へ出る。
「アイン、どうしてここにいるの?」
「ノエル様の指示に決まってるじゃないですか~。それにしても、あの王様はご愁傷様ですね。
アインが
彼女はいつもこうだ。つかみどころがなく、常人とは感性がズレている。
あの物言いからして、昨夜の出来事を見ていたのだろう。
イリアは唇を噛んだ。
「……悪趣味だわ」
「フフ♪ 絶望は
人の絶望や不幸に楽しそうな顔を浮かべるアインに、腹が立った。
けれど、言葉が出て来なくて、睨みつけるので精一杯だ。
「な……見てたなら助けなさいよ! イリアがどんな思いでいたと思っているの!?」
「あら、だってそれは騎士様の役目だもの。私の出る幕じゃないわ。どちらに転んでも、面白いものが見れたでしょうし?」
アインの思考はイリアには到底、理解出来ない。
この先も、理解出来ることはないだろう。
「それはいいとして、ノエル様から伝言よ。『ここから北、イシュケの森にある〝パール神殿〟へ向かうように』ですって」
イリアは眉を寄せる。よりにもよってあの場所へ……という思いが強かった。
押し黙るイリアの代わりに、ルカが問う。
「パール神殿……って聖地よね。そこに何があるの?」
「行けばわかるわ。ついでに、イイモノが見られると思うわよ? 活路は開いてあげるから、頑張って?」
瞬間、音もなく集まった暗霧が彼女を包み、その姿は闇に溶けるように消えていた。
「ちょっと、説明くらいして行きなさいよ……!」
ルカは憤り、半信半疑の様子だ。
しかし、イリアはノエルの意図を察していた。
「ルカ、パール神殿に行こう」
「……まあどの道、ここにいたら捕まるだけだものね」
ルカが大きなため息を付いている。
パール神殿に〝在る物〟それを彼女に見せるのは怖いが、いつまでも避けては通れない。
先行きの不安ばかりが、イリアの胸に募った。