夜の闇が、王都ザフィエルの水面に濃い影を落としている。
窓辺から望む湖面に映る月影が揺れて、まるで街全体が震えているように見えた。
イリアは王宮に用意された貴賓室のベッドに腰を下ろして、今日の出来事を振り返る。
(見た目には優美な都なのに……魔獣の脅威晒されて、みんな怯えてた。それだけじゃなくて、国王の強いた圧政への不平不満、疲弊……)
あの街並みの裏に隠された暗鬱さを、イリアは肌で感じ取っていた。
(ルカが魔獣を討伐している間、私の歌を聞いた人は「励ましてくれてありがとう」「お陰で元気をもらったよ」と笑顔で声をかけてくれたけど……わかってる。あんなのは一時しのぎ。根本的な解決にはならないって)
何とかしてあげたい、と思う。
困難を打ち破り人々を守る事は、
(出来ることは限られているけど、それでも、この手には力がある。
いずれ、この身は〝
その時まで、より多くの人を救いたい──と、使徒としてのイリアは願っていた。
(それから、ルカのことも)
彼女は今でも苦しんでいる。忘れられない過去を思い出して、消えない罪の傷痕に。
けれど、こうも思う。
(……ルカは強い人だから、私がいなくても大丈夫……かな)
この前はドラゴンを討伐するのに〝崩壊〟の
(あんなに恐れていた力を、使うことができたのだもの。きっと、悪夢にうなされることも少なくなっていくわ)
いい傾向だ。ルカは遠からず、過去を克服するだろうという確信がある。
そして、彼女は羽ばたいてゆくのだ。
気高く、美しく、けれどけして驕らず、誇り高い騎士として〝誰か〟を〝守る〟ために──。
(いなくなる私じゃなくて、いつか、別の誰かを……)
そう考えると、胸がチクリと痛んだ。
近頃はルカのことを思うと、胸がさわがしくなる。
ぽかぽかと暖かくなることもあれば、さっきのように痛んだり、きゅっと苦しくなる時もあった。
(……なんだろう、これ。どうして、こんなに落ち着かないのかな……)
イリアは俯いて、胸元に輝くペンデュラムを両手でにぎりしめる。自分の感情が理解できなくて、もどかしかった。
そこへ、コンコンと扉をノックする音が響く。
イリアはパッと顔を上げる。
ルカが尋ねて来たのかもしれない、と思った。
魔獣の討伐が終わって王宮へ戻った際、ルカとは別々の部屋に案内されてしまい、それ以来会えていない。
だが、別れ際に「あとで行くから待ってて」と言っていた。
(ルカ……!)
鼓動が早まる。イリアは逸る気持ちを抑えきれず、扉へと駆けた。
しかしながら、期待して開け放った扉の先にいたのは──。
「レーシュ様、失礼致します。こちらにアルカディア教団からの書簡が届いておりまして……」
白いエプロンに黒のお仕着せを纏った城の侍女。イリアはあからさまに落胆してしまう。
「……レーシュ様?」
「あ……はい。ありがとうございます」
侍女から書簡を受け取り、扉を閉めると、とぼとぼと来た道を戻ってベッドへ。
連絡なら〝
喜んで損をした気分になりながら〝教団から〟という書簡を広げた。
「ええっと……」
手紙の差出人は〝
内容は、
(民衆の不安を取り除き、心の拠り所を作る。そのために〝女神の歌姫〟として励みなさいってことだよね。それと、来たる最期の日を美談にする狙いも……あるのかな)
イリアは手紙を読んで、眉を下げる。
覚悟は出来ているが、彼らにとって自分は都合の良い駒なのだと言われているみたいで悲しくなってしまう。
また、最後にこんな一文が加えられていた。
「……『各国の要人には礼をもって尽くしなさい。如何なる時も奉仕の精神を忘れずに』……か。わざわざこんな事を書かなくてもいいのにね」
誰に言われなくとも、嫌な相手だからと態度を変えるような真似はしない。
ジョセフ
──静かな夜だ。
近頃は夜もルカと一緒にいることが多かったので、余計そう感じるのだろう。
「ルカ……まだかな……」
こちらから出向く手もあるが、行き違いになっては困ので大人しく待つしかない。
耳を澄ますと、窓辺からかすかに水のせせらぎが聞こえる。
眠気を誘われる穏やかな音色だ。
昼間、走り回っていたこともあって、身体が休息を欲しがっている。
(……眠くなって、きちゃった。けど、起きて、いないと……)
うとうと。イリアの意識はうつろい始める。
瞼が重く、自然と下りて来て……気付けば意識が沈んでいた。
❖❖❖
沈んだ意識を覚醒させたのは、荒々しく扉を開け放つ音だった。
イリアは驚いて飛び起きる。
扉へ視線を投げると、薄暗い廊下の向こうから重い衣擦れの音とともに昼間、謁見の間で見た男──国王が現れる。
「邪魔するぞ、女神の歌姫」
「陛下。こんな夜分に……どう、なされたのですか?」
嫌な予感がした。
戸惑っていると、国王が許可なく入室して、不躾にベッドへ近づく。
お酒を召しているのか、独特の酒気が鼻をついた。
不快感に襲われて、思わず鼻を覆ってしまう。
「どう、とは。男が夜、女の部屋を訪れる。この意味がわからぬわけではあるまい? 安心せい。枢機卿どもとは話がついておる。一晩、余の相手をしてもらうぞ」
下卑た笑みを浮かべた国王からこぼれ落ちる
(話がついてるって、何……? まさか、あの手紙……)
『各国の要人には礼をもって尽くしなさい。如何なる時も奉仕の精神を忘れずに』──と、その一文を思い出す。
この文面に込められた意味が、つまりそういうことなのだろう。
「たんまりと献金したからの。少々高くついたが……その価値はある」
愕然とした。薄々気付いてはいたものの、やはり彼らにとって
打ちのめされて、何を思えばいいのかわからない。
そうして、呆然としていると、イリアは手首を捻り上げられ、無理矢理にベッドへ押し倒された。
(……っ! これは、黙認された行為……抵抗は許されない。もし逆らえば……どうなるか、わからない。私じゃなくて、きっとルカやノエルに、害が及ぶ)
自分が耐えれば穏便に済む。けれど、怖いと思った。嫌だと思った。
好きでもない相手に触れられるのが気持ち悪かった。
身体が強ばり、唇が震える。
自然とあふれた雫がひんやりと肌を伝い、心も冷えていく。
「そう怯えずともよい。優しくしてやろう」
男の手が頬を撫でる。
悲鳴をあげてしまいそうだった。
「助けて!」と叫びたいのに、どうすることもできない。
せめて感情を殺して受け入れるしかない、と自分に言い聞かせて、イリアは瞼を伏せる。
それくらいしか、恐怖にのまれ、壊れてしまいそうな心を守る術はなかった。
不意に、瞼の裏にルカの顔が浮かんだ。
──次の瞬間だった。
バアンッ!!
と破裂音がして、反射的に音のした方へ目を向ける。
すると、扉が蹴破られており、荒い呼吸を繰り返すルカがいた。
「まったく……ずいぶんな歓迎の仕方じゃない? 晩餐会だと呼び出しておきながら、騎士を配置して軟禁紛いのことをするなんて……!」
いつもの教団の制服ではなく、礼服に身を包んだ彼女はこちらを一瞥するなり、瞬時に距離を詰め、国王の腕を豪快に振りほどく。
「離れなさい! 王族の風上にも置けない下衆が!」
そして反論を許さぬまま国王の鳩尾に拳を叩き込んだ。
国王は下品な悲鳴を上げてベッドから転がり落ち、不格好な体勢で気を失った。
「ル……カ……」
イリアは起き上がり、震える声で思わずルカを呼ぶ。
襟足で束ねた黒髪を靡かせて振り返る彼女の姿に、一気に安堵感が押し寄せた。同時に恐怖心を再認識して、震えが止まらなくなる。
「イリア、どうして抵抗しないのよ!?」
「……それ、は……猊下……が」
「だからってこんなの、あなたが受け入れる道理はないわ!」
イリアはルカの叱責に言葉を詰まらせる。どう返せばいいのかわからなかった。
俯いて何も言えずにいると、暖かなものが身体を包み込んだ。
ふわり、と柑橘系の香気にまじって塩っぽい汗のにおい。
ルカに抱きしめられていると気付くのに、そう時間はかからなかった。
「無事で、良かった。私のそばを離れないでって言ったのに、遅くなってごめん。でも、イリアはもっと自分を大事にして……! 嫌なことは嫌と言えばいいし、誰かのために貴女が犠牲になることはないの。イリアを傷つける人は、絶対に許さない。それが例え、貴女自身でも許さないわ……!」
強く抱きしめられる。
力のこもった腕と言葉から、ルカが自分を大切に想ってくれていることが伝わって来る。
少し痛いくらいなのに何故か嬉しくて、優しい彼女の声に、ぬくもりに、心と体が熱くなった。
「……ごめん、なさい……、ごめんなさい……っ」
瞳から止めどなく涙がこぼれる。イリアはルカの存在を確かめるように、背に手を添えた。
鼓動が重なって聞こえる。確かな感触と音、におい。彼女のすべてが近くにある。
決して器用に生きられない自分を、受け止めてくれる彼女の暖かさが、どうしようもなく救いだった。