ナビア王国の王都ザフィエル。
水の都、あるいは花の都と称されるこの都市は、街中と周辺に水路が張り巡らされ、中央部に王宮が鎮座している。
都市全体が六つの区画に分かれており、その形状は花の花弁のようであった。
寒色系や白に塗られた屋根や建物が多く、合間を縫って流れる水鏡と調和して、平時のこの街は実に雅やかな景色を醸し出す。
しかし、ルカが到着した時、この美しい都は暗鬱とした空気に包まれていた。
人々の足取りは重く、笑顔も少ない。首を傾げながらイリアに目をやると、彼女もまた、わずかな憂いを帯びた表情で街並みを眺めていた。
「何だか……街全体に元気がないね」
「ええ。前に訪れた時とずいぶん雰囲気が違うわ」
イリアと小声で会話を交わしながら、ルカは湖上の石畳を踏みしめて、王宮へ案内してくれる衛兵の後ろ姿を追う。
白を基調とした建築と、青い水路のコントラストは見事だが──。
その美観に似付かわしくない、不穏な噂を住民が交わしている。
耳に入るのは「今年も税の取り立て料が上がった」「近隣諸国との戦争がまた始まりそうだ」「魔獣が各地に出没して安心できない」といった声で、ルカは警戒心を高めた。
(何が起こるかわからない。気を引き締めていかないとね)
先日のドラゴン襲撃も記憶に新しく、イリアの宿命のこともある。
用心することに越したことはないだろう。
青いドーム状の屋根が特徴の、優美なザフィエルの宮殿は区画の中心に位置し、水路を幾度か渡った先にあった。
宮殿に辿り着くと中を見回す間もなく、ルカとイリアは謁見の間へ通された。
衛兵の守る
最奥の段上に黄金の玉座があり、金糸をあしらった派手な衣装を纏う中年の男が、傲然と腰掛けていた。
(あれが国王。グロキシニア・デジール・ローリエ・ナビア陛下。謁見するのは初めてだけど……)
国王はルカとイリアが入室するなり「ほう」と薄ら笑いを浮かべながら、舐め回すような視線を送って来た。
特にイリアを執拗に見つめて、にたりと口元を歪ませる。
「なるほど、これが〝女神の歌姫〟か。噂どおり美しいな……いや、想像以上だ。女神の再来と
あからさまな物言いが不快だ。心がざわつく。
イリアは礼を尽くして「お初にお目にかかります」と微笑む。
けれど、国王の態度は変わらず、まるで客人を遇する気のない、侮蔑混じりのものである。
ルカも名乗り最低限の礼を取るが、胸のうちでは、嫌悪と不安が膨らんでいく。
「うむ、うむ、実に良い。そなたの歌を、ぜひとも余の前で披露してほしいものだ。二、三日滞在する時間を伸ばしてはどうだ? 歓迎するぞ」
露骨な誘い文句に反吐が出そうだった。
ルカはイリアを隠すように一歩前へ出て、頭を垂れる。
「グロキシニア陛下、大変ありがたいお言葉ですが、今は教団の任務が最優先でございます。まずはそちらを終えて、その上で改めて、ご相談させていただければと……」
笑顔を添えて顔を上げると、国王は「ふん」と鼻を鳴らして、不機嫌な気配を漂わせた。
「ならばさっさと任務を終わらせて来るがいい。魔獣の討伐、そして住民への慰問。抜かりなくこなせ。無能を晒すことは許さん」
威圧的で偉そうな態度に腹が立つものの、反発などできない。
ルカは笑顔を貼り付けたまま応対する。
「もちろんです。ご期待に沿えるよう、尽力致します。女神様の名の下、ナビア王国の安寧を守るために」
「口先だけでないことを祈っておるぞ」
ルカは一礼を返すとイリアの耳元で「行くよ」と囁き、戸惑いの色を浮かべる彼女の手を引いて
その間際、国王が欲望に染まった視線をイリアへ送り、下劣な笑みを浮かべるのを視界の端で捉える。
(……目を付けられたわね。面倒事にならないといいけど)
なんにせよ「自分がイリアを守らなければ」と、ルカは再度心に固く誓った。
謁見の間を退出すると、一人の侍女が二人を待ち構えていた。彼女は「お部屋にご案内致します」と言って歩き出し、ルカは首を傾げる。
「部屋……ですか? そのような話は伺っておりませんが」
「陛下の取り計らいにございます。ナビアに滞在する期間、お二方には王宮の貴賓室をご利用いただくように、と」
裏がありそうで素直に喜べないが……断るのは難しいだろう。
腹を括って受け入れるしかない。
「そうなのですね。ご配慮くださりありがとうございます、とお伝えください」
ルカは愛想笑いを浮かべた。侍女は抑揚なく「承りました」と答え、二人の前を行く。
その背をじっと見つめながら、ルカはイリアに小声で話しかける。
「イリア、用心して。ここに滞在している間は、私のそばを離れないでね」
「うん? 怖い顔して、どうしたの?」
「謁見の間での陛下の態度、見たでしょう? ……貴女、狙われているわよ」
「……ああ、なるほど。ルカってば、心配性なんだから。いざとなれば〝歌〟で何とかするから、大丈夫だよ」
イリアが胸の前で両手をぐっと握りしめた。
彼女はこう言っているが、根拠のない自信だ。
欲望に駆られた男の恐ろしさを知っていれば、こんな風に安穏としていられるはずがないのだから。
それとも宿命を知っているからこその自暴自棄だろうか。
(なんであれ、不安しかないわ……。私がしっかりしないと)
かくして、貴賓室への案内を受けていると──。
「湖畔の外れに魔獣が出没!」との報が、兵士よりもたらされた。
危機感を露わにしたイリアが「ルカ」と名を呼んで、行動を促す。
「私たちの出番ね。案内をお願いできるかしら?」
ルカはうなずいて、知らせを持って来た兵とイリアとともに、急ぎ目的地へ向かった。
道中、民家の軒先から
怯えと息苦しい雰囲気が、華やかに彩られた水路とは対照的だ。
(なにかしらね……この空気。とても違和感がある)
ルカは喉元につかえるものを感じながらも、目的地に到着する。
そこには雄叫びを上げて群れる獣の姿があった。
湖岸に巣食う〝
小柄ではあるが、名の如く鋭い牙と爪を光らせ、周囲を荒らし回っている。
「イリア、ここは任せて。貴女は住民の保護を」
「うん、気を付けてね。一昨日ほどの魔獣じゃないけど、油断しないで」
「ええ。あれくらいなら、朝飯前だわ」
ルカは刀を抜いて猛然と剣牙獣へ斬り込む。
こちらに気付いた獣が、飛びかかってきた。
刀の刃を前面に出して受ける。
獣の一撃は重いが、以前のドラゴンと比べればなんてことはない。危険度も低い。
一体はそのまま、力技で斬り捨てた。
ここでかすかに歌声が聞こえて来る。
『柔らかな朝の光が
瞼をそっと撫でてゆく
暖かな気配に混じる花の香り
胸の奥に小さな奇跡を咲かせて』
イリアが不安に揺れる住人を励まそうと、歌っているのだろう。
「私も頑張らないとね」
ルカは口角を上げて、遠巻きにも澄んで心地よい音を聞きながら、獣と踊る。
背後から迫った二体目の動きを冷静に動きを見切り、反撃の一閃で二体、三対……と、苦もなく剣牙獣を討ち取っていった。
「……ふぅ、こんなところかしら」
目視できる範囲に魔獣がいないことを確認して、刀に滴る血潮を振り払う。
「イリア、こっちは片付いたわよ」
討伐した事を告げると、イリアはきりの良いところで歌を止め、「もう大丈夫ですよ」と優しく微笑んだ。
住民たちは安堵しつつも、国王への不満や日々の圧政を口にして苦い顔をするばかりである。
(圧政と度重なる魔獣の出没が、この国の人たちを疲弊させているのね。……どちらも一筋縄では解決しない問題だわ)
ルカは住民たちの憂いを感じ取りながら、イリアへ視線を投げた。
銀糸を靡かせ、花のような笑顔を咲かせる姿に胸が温かくなる。同時に、鈍い痛みも込み上げた。
ふとした時にどうしても思い出してしまうのだ。
「姉さんは、世界のために死ぬつもりだよ」──という、ノエルの言葉を。
(イリア……。貴女は今、どんな気持ちで笑っているの? その笑顔の下に、何を隠しているの?)
イリアの宿命、ナビア王国の闇——どちらも暗く重たい影を落としている。
しかし、その全てを解決出来るだけの力が自分にはないことを、ルカは知っていた。
それでも、一歩ずつやるしかない。
守りたい、救いたいと願う気持ちに、嘘はないのだから。