聖都にドラゴンが来襲するという、大事件があった夜。
ノエルは横目で、警備に当たる聖騎士たちを眺めながら、教団本部の回廊を進んだ。
教団の信徒・兵士たちは使命感と
(金、権力……そういった力を手にしたがために起きる、政治の腐敗。その筆頭が、
激しい怒りの炎が燃え上がる。
だが、けして表面には出さず、内に押し込めて歩む。
やがて、ノエルは重々しい扉の前で足を止めた。
この先は
ノエルは深呼吸して、扉を開けた。
円卓の設置された室内には、すでに枢機卿たちが待ち構えており、彼らの視線が一斉にノエルへ注がれる。
その中には、主席枢機卿ジョセフ・ライネスの姿もあった。
「ノエル聖下、お待ちしておりましたぞ」
ふくよかな体躯に似合わない純白の
あくどいと思える笑みには、腹の底が読めない冷たいものが潜んでいる。
「ああ、待たせて悪かったね。……それで、話とは?」
ノエルは淡々と問いかけた。
ジョセフは一度目を伏せたあと、「大したことではありません」と軽く肩をすくめる。
「先ごろ起こったドラゴン来襲の件について、いくつかお伺い出来ればと思いまして。……あれは聖下の御采配、なのでしょう? 破壊の騎士ペイを我らが駒とするための。事前にご相談いただけましたら、相応しき場をご用意致しましたのに」
にこにこと笑うジョセフが、無言の圧をかけてくる。
その意図を察して、ノエルは腕を組み、壁に背を預けた。
(つまりこう言うことだろ? 『勝手なことをするな』と。ルカの手綱を握れなくなって困るのは、お前たちだものな。後がないと知りながら打開策を模索することもなく、安易に姉さんを生贄に差し出そうとする俗物が)
心の中で毒づきながら、表情は変えず冷ややかに答える。
「お前の推察通り、あの騒ぎは〝
「ですが……」
「何か問題でも?」
「いえ、問題というほどでは……。ただ、ペイには特例の免罪を与えているわけですし、万一の事態が起きないとも限らない。それを防ぐため、もう少し徹底した監視体制が必要ではないか、と私どもは再考しておりまして」
ジョセフの周囲に座する他の枢機卿も、口々に賛同を示す。
ノエルは舌打ちしそうになるが、それを堪え、鋭めた視線で彼らを牽制した。
「ペイの件は私が預かる。力の抑制にも私の
「とんでもない。私どもは女神様の代理人たる教皇聖下を敬愛しております。聖下がそこまで仰るなら、今回の件は……そうですね、しばらく静観することに致しましょう」
ジョセフが両手を揉み合わせて、媚びへつらう仕草を見せる。
しかし、浮かべている笑みは、目が笑っていない。古狸という言葉がピッタリな男だ。
ここで議論は表向き収束。あとは被害状況の報告と復興計画の策定が話し合われるのだが、ノエルは「一任する」と告げて足早に退室する。
汚物の腐臭が漂う場所になど、一秒たりともいたくなかった。
(……全く、ここ数代の教皇がお飾りに近かったのは知っているけど、酷いものだね。教皇といえば女神の血を引いた一族、その中でも【
ノエル自身は権力にほんの少しも魅力を感じない。
女神の血筋だとか、アルカディア教団の頂点だとか、そんな肩書どうでもいい。
しかし、今は必要なのだ。
最愛の人を守るために──。
ノエルは鬱憤を吐き出すようにため息をつき、私室へ向かう足を速めた。
❖❖❖
教団本部の上層階に位置する、教皇専用の執務室。
その隣には寝室を兼ねたノエルの私室がある。
煌びやかだが薄暗い室内。ノエルが足音を立てぬよう豪奢なベッドへ近寄ると、静かな寝息を立てる美しき
ギシリと軋む音を立てて、ベッドの傍らに腰を下ろしても、起きる気配はない。
ノエルは艷めき輝く長い銀糸を一房摘み、口元に寄せた。
ほのかな花の香りを楽しみながら、親愛を込めた口付けを贈る。
「……姉さん。僕の……宝石」
ノエルにとってイリアは唯一無二の存在だった。
喜び悲しみを分かち合いながらともに育ち、いつも身近にあって自分を守ってくれた強く優しい姉。
彼女のためなら、他の何を犠牲にしても構わない。自分の命を懸けても惜しくないほど、大切で愛しい人。
「絶対に
ノエルは眠るイリアに柔らかく微笑んだ。
(姉さんは宿命を受け入れて自らを犠牲にしようとしているけど──このクソみたいな世界、人にそんな価値はない)
世界は歪んでいる。女神の愛した
そこに生きる人々は、
(そして、僕たちは世界を存続させるための歯車でしかない。女神の子孫だから、
ノエルは抑えきれない怒りから、拳を握りしめた。
「〝
ノエルは顔だけ、執務室の出入り口へ傾ける。
扉を守るように長身でがたいが良く白銀の
アイゼンは同意を示すことなく
「聖下、過激な発言はお控えください。どこに耳が潜んでいるかわかりません」
「僕が何を言ったところで、ヤツらは何もできないさ。もはや僕らの代わりなんて、どこを探してもいないんだから」
「それは……そうかもしれません。私が言いたいのは……」
「わかっているよ、
「はい。事を為し終えるまで、気付かれてはなりません」
ノエルは眠るイリアに視線を落とした。
脳裏に街中で見た姉の笑顔が浮かぶ。
自分の知らないところで、優しげな微笑をルカへ向ける様子には、嫉妬や寂しさもある。
だけどそれ以上に、「姉さんが幸せであってほしい」と願う想いが、ノエルを突き動かしていた。
(ルカには頑張ってもらわないと困る。……あの力をうまく使いこなして、姉さんを支えてもらわなきゃな)
ノエルは「ふぅ」とため息をつく。
名残惜しいが、いつまでもこうして眺めてはいられない。
〝変革〟のため、やるべきことが山積しているのだから。
「……待っていて、姉さん。絶対に、生贄になどさせない。世界を生かそうというのなら、代案もある。そして、教団に巣食う害悪も残さず粛清しよう」
穏やかに眠るイリアの頬を愛おしんで撫で──ノエルは立ち上がった。
戦う理由はただ一つ。
〝最愛の姉のため〟。彼女が生きて、幸せであることが願い。
静かな決意を胸に、ノエルは光なき道を征く。