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第四話 勿忘草色の憂鬱

 イリアがルカとを連れてやって来たのは、聖都の大通りに軒を連ねる紅茶専門店〝ル・モンド〟だ。


 店舗の路面はガラス張りの窓。そこから棚に陳列された商品が窺える造りになっている。


 扉を開けばチリンチリンと可愛らしい音が鳴り、「いらっしゃいませ」と礼儀正しい女性の店員が三人を迎え入れた。


 店内へ足を一歩踏み入れた瞬間、茶葉のかぐわしい香りがイリアの鼻孔をくすぐる。

 一種類だけでなく、何種類の香りが合わさってとても味わい深い香りを演出していた。



「わあ……いい香りね。内装もお洒落で素敵だし、茶葉は種類が豊富。茶筒キャニスターも可愛いらしいものがたくさん」



 ルカが〝紅眼ルージュ〟と呼ばれる、柘榴石ガーネットのように情熱的な赤い瞳を細める。

 イリアは同意してうなずいた。



「でしょう? ルカなら絶対気に入ると思ったの。ここの茶葉はどれも美味しいから、次の任務にも持って行きたくて。また空いた時間に、淹れてあげるね」


「イリアの淹れる紅茶、好きよ。……料理はまるっきりダメなのに、凄く美味しいのよね。不思議」



 くすくす、と端正な顔立ちを緩ませて笑うルカはキレイだ。

 左目尻に二つある泣き黒子が、魅力をさらに引き立てている。


 そんな彼女に「好き」と言われて、鼓動が早まるのを感じた。

 紅茶のことだとわかっているのに、むず痒い。



「りょ、料理のことを引き合いに出すなんて卑怯よ。誰にでも、苦手なことの一つや二つ……あるでしょう?」



 イリアは照れ隠しに拗ねたふりをしてみる。



「そうね。ただ、イリアの場合は一つじゃない気もするけどね?」



 含みのある言い方をして、ルカがほんの少し首を傾けた。襟足で束ねられた彼女の黒髪がサラリと肩から落ちる。


 ルカの些細な所作から滲む気品と美しさから、イリアは目が離せなかった。



「……ちょっと、僕のことを無視して姉さんと話すの止めてくれる?」



 そんな折、強引に買い物デートへ付いて来たエルがルカとの間に割って入る。

 ルカが「ごめんね」と告げて「エルは好きな銘柄はあるの?」と話題を振った。


 ──それに対するエルの返答はお察しだ。



(うう……どうしてがついて来るのよ……。神学校の〝見習い司祭〟だなんて嘘までついて。……せっかくルカと二人で、思い出を作るチャンスだったのに)



 イリアは心の中でため息をついた。

 ルカはノエルが悪態をつこうが、無視しようが、嫌な顔をせず接してくれているが、モヤモヤする。


 それに、弟はこのような場所に気楽に来られる立場ではない。



(きっと今頃、教団本部で大騒ぎになっているはずよ)



 奔放な振る舞いの代償……後のことを考えると気が重かった。

 もっとも、憂鬱になる本当の理由はそれに限らず、別にあることもわかっている。


 あまり考えないようにしてきたが、もうそろそろ潮時だ。

 逃れられない己の〝宿命さだめ〟と向き合う時が、迫っている。


 世界と一人の命。

 天秤にかけた時、どちらが重いかなんて問うまでもない。



「……ノエル、お願い……邪魔をしないで。私には、もうあまり時間がないの……」



 イリアは消え入りそうな声で呟く。


 そして、傍目には親し気に会話を広げるルカとノエルを視界に入れ、震える指で胸のペンデュラムを握り締めた。





 ──己の宿命を知ったのはいつだっただろうか、とイリアは振り返る。



(……多分、物心ついた頃から。私は漠然と、世界のために生きて死ぬんだって感じていた)



 女神の使徒アポストロスたる聖痕など刻まれていなくとも、この身に流れる女神の血が囁いた。



愛し子人々のために身を捧げなさい。それが貴女の使命よ……って。それを不思議に思うことはなかった。一族のみんな、そうだったから)



 女神の血族自分たちは、世界を存続させるための歯車。その認識が変わることはなく、むしろ成長して経験を重ねる毎に、縛り付けられていった。



(女神様の使徒となってからは、ただただ使命に没頭したわ)



 そうしているうちにイリアとしての感情が一つずつ失われてゆき、遂には従順な女神の僕人形と成り果てる寸前──。



(……ルカと出会った)



 彼女は戦場で金髪の少女大切な人亡骸なきがらを抱いて泣き叫び、目覚めた力を暴走させて……敵もろともに多くの戦友の命と、もう一人の大切な人婚約者を自ら消し去ってしまった。


 哀しい十字架を背負う人。



(戦場で悲嘆と絶望から怨嗟に狂うルカを、私は歌で鎮めて、それから……封印部屋へ拘禁された彼女の元を、頻繁に尋ねた)



 枢機卿団カーディナルから〝ルカを見張れ〟と命じられたから、というのもある。


 けれど本音は、大切な人を亡くして泣き叫ぶ彼女の姿が、両親と一族のみんなを奪われた時の自分と重なって見えたからだ。



(私は、ノエルを守ることに必死で、泣くことが出来なかったけど……悲しくなかったわけじゃない)



 あの痛みと喪失感そうしつかんは、今でも覚えている。


 封印部屋へ拘禁された直後のルカは、目覚めるたびに泣きわめいては絶望し、呪いの言葉を吐いていた。



(そんなルカに対してしてあげられたことは多くない。少しでも気持ちが和らげばいいと願いを込めて〝あの歌〟を歌うくらいで……)



 女神の血族に伝わる子守唄。母から子へずっと昔から歌われてきた、あの歌を──。



(だって、どんな言葉をかければいいのか、わからなかった)



 感情を失い人との関り方を忘れてしまったイリアには、それが精一杯だった。

 けれど、その行動をきっかけに、ルカとの交流が始まる。



(私はルカを癒すために〝歌〟を、ルカは外の世界の〝話〟を私に聞かせてくれて……)



 少しずつ、少しずつ、時間をかけて、お互いに影響を受けながら変わって行った。


 彼女は、光のような人だ。


 未だ絶望の影がかげりを落とすことはあるが、ひたむきに前を向く姿はまぶしく、努力を惜しまない姿を尊敬している。



(……そして、ルカの〝他人〟を思いやれる心の強さにかれている)



 この気持ちが何であるのか、まだ名を付けることはできないが、もし叶うのであれば、ずっと、ずっと、彼女とともに在りたいとイリアは願う。



(でも、わかってる。この願いが叶う事はないって)



 だから今だけ。今だけは、誰にも邪魔されることなく、二人の時間を大切にしたいと思っていた。



(それなのに──)






「へぇ、エルも紅茶に詳しいのね」


「当たり前だろ。姉さんが好きな物なんだから。銘柄ごとの特徴、風味だってバッチリ覚えているよ」



 鼻高々に腕を組むノエルに対し、ルカが棚に並ぶ商品の一つを指差して見せる。



「なら、これ。イリアが一番お気に入りの銘柄の特徴は?」


「ルージュ・ロゼだろ? 茶葉の産地はナビア王国。バラを思わせる華やかな香りと渋みが特徴で──」



 事情を知っているはずなのにルカとの時間を邪魔して、それどころかこちらを置き去りにして彼女と会話を続けるノエルに、イリアは悶々とする。


 あそこへ踏み込んで行きたいけれど、いつもと違う姿を見せたらルカに嫌われるんじゃないか。そう思うと、勇気が持てなかった。



「ノエルの、バカ……」



 小さく悪態を付いてみるが、気持ちは晴れない。

 イリアはきゅっと唇を引き結んで、しばらく二人のやりとりを見守るしかなかった。

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