真紅の眼光がふらっと揺れ動いた瞬間、シャノンを痛めつけていた男が反対の壁まで吹っ飛んだ。……文字通り、高く浮いて飛んだのである。
「ぐああっ!! ……う、な、なんだっ!?」
「……」
シャノンは痛む体を少しだけ起こして見上げる。
すぐそばには、ルロウが立っていた。恐ろしく感情を消し去った横顔。漂う空気は極寒のように冷え切っており、この場にいるだけで肌がざわざわと粟立ってしまう。
ちら、と。
ルロウの視線がシャノンを向いたと思ったら、音もなく彼はシャノンの目の前にやってきた。
『ここで、いい子に待ってろ』
ルロウは肩に掛けていた羽織でふわりとシャノンを包み込み、持ち上げて男が吹っ飛んだほうとは逆の壁に寄りかからせると、静かに囁いた。西華語で喋りかけていることには気づいていないようである。
立ち上がったルロウは、いまだ衝撃で蹲る男のもとに歩いていく。
目にも留まらぬ早さで顎を蹴り上げ、さらには弾かれたように浮き上がった上半身に横蹴りをくらわせた。
「お前、まさかっ、ルロウ・ヴァレ――」
『抉りとって潰されるのと、このまま踏みつけ潰してやるの、どっちがいいか言ってみろ』
「ぐ、あっ、ぎゃああああ」
『聞くに耐えん家畜のような声なんぞ要らない。人の言葉を話せ』
耳を塞ぎたくなる打撃音と、男の喚きが交互に届く。
「お、おい……まずいぞ。ダリアン様から首謀者は生け捕りって言われてるのに、あれじゃ」
「でもよ、止められねぇよ。今のルロウ様を邪魔したら、敵味方関係なく殺されるって……っ」
「ダ、ダリアン様はこちらにいらっしゃらないのか……!?」
客席の貴族たちを捕縛し、舞台袖に駆けつけたルロウの部下たち。彼らはルロウの様子を目にすると、顔面蒼白になって動きを止めてしまう。
そうしているうちにルロウは男に手をかけようとしていた。すでに顔の原型をとどめてない男の左胸に足を置き、ぐりぐりと踏みつけるように力を込めている。
「ルロウ、待って……!」
振り絞った力でルロウの背にしがみついたシャノンは、意を決して暴走を止めに入った。
ルロウが誰かを殺しているところを見たくない――などと、甘い考えがあったわけではない。
そんな綺麗事は言わない。自分はすべてに対して善人になることはできないし、ハオとヨキにあれだけ酷いことをした男の安否などどうでもよかった。
それでも必死に止めようとしているのは、今はまだ命を奪うときではないと冷静に考えたからだ。
『…………』
「ルロウ……?」
『いい子に待っていろと、言わなかったか』
「あのね、ルロウ。さっきからずっと西華語で話していて、何を言っているのか分からないです」
「……ああ、そうか。ならば、仕方ない」
やはり無意識下で言葉を変えていたようだ。
シャノンの言葉を耳にすると、ルロウの張り詰めていた気配がだんだんと緩んでいった。
「おまえたち、こいつを縛っておけ」
「は、はい!」
「すぐに!」
はあ、と深く長い息を吐いて平静を取り戻したルロウは、部下に指示を出すと、シャノンを抱えて舞台袖を後にした。
***
ルロウに抱えられ劇場の外に出たシャノンは、周りの景色を目にして首を傾げた。
「ルロウ、あの遠くに見える建物って」
「皇城だ」
「……。それって、皇都にある、お城のことですか?」
「ああ」
「…………ええ!?」
そこでシャノンは、自分がヴァレンティーノ領ではなく、皇都の外れまで攫われていたことを理解した。
空に登る月の位置を見るに、現在の時刻は真夜中のようだ。一体連れ去られてからどれだけの時間が経っているんだろうか。
「あまり口を開くな。中が切れてる」
「あ……いたっ」
ルロウの言葉どおり口内が切れていたようで、口を大きく開こうとするたびに痛みが走った。
思わず頬を押さえたシャノンを横目に、ルロウは近くの崩れた塀の上に腰を下ろす。シャノンはそのままルロウの膝に座らされた。
「ルロウ、わたし立てるので膝を貸していただかなくても大丈夫です」
「痛むか」
シャノンの主張は総無視で、ルロウの長い指がシャノンの腫れた頬を優しくつついた。
わずかな刺激にシャノンの肩がぴくっと跳ねる。
「痛いです。でも、わたしは大丈夫です。それよりハオとヨキのほうが心配です。わたしを庇おうとしてたくさん……」
「あの双子は脆弱ではない。じきにいつも通り騒がしく動き回るだろう。だが、おまえは違う。……弱い、脆い、そこらの餓鬼よりも面倒なほどに」
「ご迷惑を、かけてしまって……すみません」
月明かりに照らされたルロウの姿が、まるで光のベールをまとったように美しく反射していた。
それが少し眩く目を細めれば、ルロウの赤い双眸も同じような動きをしてみせる。
「……違う。謝罪を求めているわけではない。おれがおかしくなっただけだ。面倒だが、勝手に手を出されるよりはいい」
「……?」
揺れる瞳が、なんだか酷く切なげに見えた。
「――シャノン」
そしてルロウは、確かに告げる。
あまり本心を見せない彼からの、驚くべき提案が。
「この先、おれの本当の婚約者になるというのは、どうだ」