大陸ユストピアは、ラーゲルレーグ帝国、西華国、クア教国の三勢力によって支配されている。
闇夜の一族ヴァレンティーノ家。
表向きはラーゲルレーグ帝国の伯爵位を賜る家門だが、その裏は『覇王』と呼ばれ、西華国とクア教国の無法地帯に築かれた闇使い組織と深く繋がっている。
ヴァレンティーノ家は、ある理由から国内のみならずその他二カ国からも目を置かれており、ゆえに誰もが下手に手出しできない存在だった。
***
「ルロウ様、あの夜は助けてくださって、ありがとうございます。これから、よろしくお願いします」
その青年は、造形美ではないかと錯覚するほどにすべてが整っていた。
「…………」
寝台にはべらせた裸体の女性たちのあいだから上半身を起こし、ゆっくりと首をもたげる。
興味がなさそうな瞳をこちらに向けて、なお興味がない口ぶりで言った。
「……それは、どこの餓鬼だ?」
(今日からこの方が、わたしの……本当に、務まるの?)
これは、ヴァレンティーノの次期覇王との婚約が決まった――見世物小屋の聖女の話。
***
祈りは、とおに尽きた。
聖なる女人の栄光は、いつ奇跡をもたらしてくれた?
何年も何年も。正しいものだと信じてきた教えが、万人を救うものではないのだと、身をもって知った。
――ああ、また。暁の光がやってくる。
祝福の光とされるそれを、何度恨めしく思ったことか。
こんな気持ちを抱いてしまうわたしは、もう聖女にふさわしくないのだと思う。
「ひいいい! 助けてっ」
見世物小屋に男たちの悲鳴が反響する。
手足を拘束されたまま、シャノンは被りの中からぼう然と虐殺を目にしていた。
先ほどまでの酷遇で、体の芯は冷えきっている。
けれど、彼が現れたことにより指先に温度が戻りはじめていた。
「おかしいな。人身売買も見世物小屋も、ヴァレンティーノはずいぶん前に禁じたはずだ」
その口調はどこか喜悦が滲んでいた。
話す速度さえも睦言を囁くように悠然で、しかし振り下ろす刃は恐ろしくはやく鋭さをもっていた。
「ち、違います、これは違うんです! どうか命だけはっ」
「違う? おまえの目には、おれと違う景色が見えているのか?」
青年は首をかしげる、そして、口の端を歪めた。
「ひいいっ、お願いします、見逃して……っ」
「…………はぁ〜、聞くに絶えない命乞いだ。自分が撒いた種の処理は自分でつけるものだろう。まあ、おまえの微々たる心臓じゃあ足しにもならんが」
真っ黒なローブの下で、発せられた青年の愉快そうな言葉に男は震え上がった。
逃げ出そうと背を向けた瞬間、青年の剣が素早く動く。
背後から左胸を一突き。シャノンを散々利用していた見世物小屋の男は、呆気なく絶命した。
「――おい」
「……っ!!」
夢か現実かの区別をつけてくれたのは、粗野に掴んできた青年の手の感触だった。
(あ……手、あたたかい)
「生きてはいるようだ」
真紅の瞳がこちらを覗き込んでいる。
放心していたシャノンの動きを確認すると、素っ気なく掴んでいた手を離して背を向けた。
「おれは地下へ行く。餓鬼は外だ」
「はっ」
青年の命令に、周囲の黒ローブ集団がてきぱきと動きはじめる。
(わたし、助かった……?)
外に出されるまでの短い間、シャノンは自分を救ってくれた後ろ姿をずっと見つめていた。
床には惨たらしい死の数々。
けれど、いまの自分には、青年の後ろ姿しか見えていなかった。
見知らぬ集団によって外に出され、シャノンは左足を引きずりながら、久しぶりの外気にほっと息をつく。
囚われていたほかの子供たちも命に別状はないようで、助けてくれた大人たちの指示に従っていた。
「あいつはどこまで行ったんだ」
「それが、おひとりで奥を確認してくると言って」
「……困ったやつめ」
外には葉巻をくわえた背の高い男が立っていた。
なんとなく「この中で一番偉い人」のオーラがあり、現にほかの大人たちも男には敬意をもって接しているようだ。
(銀の髪と、真っ赤な目)
シャノンが男の髪と目の色をじいっと見つめていると、その視線に気がついた男は近づいてくる。
「おい」
男の胸下ほどの身長しかないシャノンと目線を合わせるように、男は膝を折って言葉をかけてきた。
目の下には疲労のあとのような、隈がある。
「…………どこか痛むのか?」
大人の人にこんな言葉をかけてもらうのは初めてだったので、シャノンは聞き間違いかとぱちぱち瞬きを繰り返す。
「もうお前たちを傷つける人間はいない。向こうに毛布と食料を用意してある。行って体を休めなさい」
淡々としていたけれど、それはじんわり温かな声調だった。
「…………」
(よかった。もう、みんなを傷つける人はいない。よかった、よかった。この、力も――)
「……っ!」
これまでの緊張がすべて解けるように、シャノンの意識はふっと抜けていく。
男は前に倒れ込んだシャノンの体を受け止めると、外気に晒された首裏を凝視し、目を見張った。
「これは」
シャノンは聖女だった。
ユストピア大陸の南方を統治するクア教国で生まれ、両親はおらず赤子の頃から孤児院で暮らしていたが、聖女の資質を見出され教会の子として育てられた。
始祖大聖女――聖なる光の使徒である聖女は、世の不浄を払うために誕生したとされる。シャノンも教会の教えに従い「癒しの力」の修得に励んだ。
怪我や心に潜む燻りを清めることができる聖女は、希少な教国の宝。
例に漏れず、思想に染ったシャノンも、その身を生涯捧げるはずだった。
あるときシャノンは、自分と少し年の離れた姐聖女に危害を加えた罪で拘束された。
危害を加えたというのはすべて濡れ衣で、姐聖女が秘密裏に司教とまぐわっていたところを目撃してしまい、その口止めのために捕まったのである。
その頃のシャノンは、姐聖女と司教の行為の意味を知らないくらいに、無知な子供だった。
子供ゆえにどこかで何気なく口を滑られ、誰かに伝わることを恐れたのだろう。姐聖女と司教が口裏を合わせて教会に働きかけた結果、シャノンは道徳性に問題があると判断され、無実を訴える猶予もなく教会を追放されてしまった。
教国で罪を犯した者は、地方の収容所に送られる。
シャノンはそこへ連れていかれる道中に野盗に襲われた。すぐにわかった。その野盗たちは、シャノンを生かしておくことに不安を抱いた姐聖女と司教が雇ったものだと。
野盗によって馬車の扉が開けられた瞬間、シャノンは近くの運河に飛び降りることで命からがら逃げ出すことができた。
流れ着いた川で偶然にもシャノンを引き上げてくれたのは、人身売買、そして違法に見世物小屋の営む男。
教国からは逃げ出せた。でも、シャノンの不自由はその先しばらく続くことになる。
シャノンに癒しの力があると知るや否や、男はシャノンを見世物小屋に立たせるようになった。
傷を癒し、精神を癒すシャノンの力に多くの人々は魅力された。
その裏で違法な金の動きがあろうとも、シャノンにはどうすることもできなかった。
教国で聖女の務めを全うしていた頃。
朝の光を浴びながら、訪れたその日に感謝するのが習わしだった。
(明日なんてこなければいいのに。いつまでも、この夜が続くのなら、ここで)
シャノンは朝日が恨めしかった。
始まりを告げる光が憎かった。
――だからこそ、衝動のままに死のうとした瞬間もあったように思う。
それでもシャノンを押しとどめたのは、自死はもっとも愚かなる行為という教会の教えと、見世物小屋に囚われる子供たちを残していけなかったからである。
だけど、いつ、いつまで、繰り返されるのだろう。
何度、朝日に絶望すればいいのだろう。
――大丈夫、祈りは必ず、いつか救いが、信じないと、祈るの、救いが、救い、救いをください、たすけて、おねがい、もう痛いのはいや、くるしい、痛い、痛い、苦しい、たすけて、救いを、救いを、救いを、救いを、救いを。
そんなとき、彼は現れた。
「愉しい愉しい見世物小屋は…………ここか?」
(――神、様?)
美しく整った顔に、にたりと浮かぶのは死を誘う微笑み。
シャノンには、どんな光よりも眩しいものに見えた。