古井戸の怪談、と目にすると思い出す話。
元看護婦だった母親の知人で、同じく看護婦だった竹尾さん(仮名)という人がいて、その人から聞いた不思議な体験。
昭和30年代。竹尾さんは新人看護婦として関西のとある病院に勤務する事になった。患者の多い、規模の大きな病院だった。
先輩のベテラン看護婦の引率で院内の設備を見学していた時、病棟を繋ぐ渡り廊下でベテラン看護婦が立ち止まった。廊下の窓からは、病棟に囲まれた広い中庭のような場所が見えた。中央に、円形のコンクリートの置き物のような物が見えた。ベテラン看護婦は、その置き物を指差した。
「ここは中庭ですが、あれは今は使用されていない古い井戸です。もし夜勤の時など、深夜に井戸の側に誰か立っているのを見ても、無視してください。いいですね?」
竹尾さんは「え?」と思った。もし病室からさ迷い出た患者だったりしたら、と思ったのだ。
でもベテラン看護婦はそれ以上何も説明しなかった。
実は竹尾さんは元々「見える」人だったので、大きな病院には色々あるんだろうな、とそれ以上詮索はしないでおいた。
それからしばらく、新人看護婦として忙しい日々を送っていた竹尾さんは、中庭を見るたびに古井戸を気にはしたけど、特に何事も起こらなかった。ただ、少し妙に思う事はあった。
中庭に面する病室に入院している患者の中には、「あの中庭はなんか気持ち悪いわ」と言って昼間でもカーテンを閉めている人がいた。また、昼間に散歩をしたり隅のベンチを利用する患者はまずいなかった。別の場所にある庭はいつも息抜きで出歩く患者で賑やかだったのに。
やがてある日の深夜、急患で慌ただしく走り回っていた竹尾さんは、中庭の見える廊下を通りかかった。いつものように何気なく古井戸の方を見た竹尾さんはぎょっとした。
古井戸の側に、女性が立っている。
看護婦の本能で一瞬足を止めて様子を伺った竹尾さんは、次の瞬間に、その人が古い着物を着ているのに気づいた。患者が着用している寝間着とは明らかに違う。
「無視するように」というベテラン看護婦の忠告を思い出して、慌ててその場を離れ、しばらくしてまた中庭を見た時は既にいなかった。
竹尾さんが後で思い返しても、井戸の側に立っていた女性の顔などはわからなかった。ただ、とても古い時代の人だというのだけがわかった。
他の看護婦仲間も同じように見ていたけれど、全員忠告通りに無視していた。
それからも、井戸の側に立つ女性は時々目撃され、竹尾さんも2回ほど体験した。患者は深夜は窓のカーテンを閉めて就寝しているので目撃するのは看護婦ばかりだった。とはいえ立っているだけなので、皆は慣れてしまい、特に話題にもしなかった。
月日が過ぎ、暑い夏がやって来た。
8月のその日、竹尾さんは夜勤だった。
何日も雨が降らず猛暑が続いていて、夜になっても無風でひどく暑かった。
本当は消灯後はベッドに安静にしていないといけないのだけど、あまりの暑さに患者たちは眠れずに起きていて、窓を開けて涼んでいた。
深夜2時頃。詰め所にいた竹尾さんたちの所に、患者の悲鳴や叫び声が聞こえてきた。何事かと急いで病室に駆け付けた竹尾さんたちが見たのは、窓から中庭を指差して騒ぐ患者たちだった。
「看護婦さん! あそこ、中庭に人が立ってる! あれ絶対に幽霊や!」
竹尾さんは急いで窓に走り寄った。確かに、女性が井戸の側に立っている。
ところが、竹尾さんの横に立った看護婦は「え? 誰もいないよ」と怪訝な顔をし、別の看護婦は「女が2人いてこっちを見てる!」「いつもと違う!」と叫ぶ。
ここの病室の騒ぎは、静かな深夜、窓を開けていたせいでどんどん広がり、あちこちの病室でも「幽霊がいる!」と悲鳴が上がり始めた。見えた内容は奇妙な事に1人だけ、複数、白い着物姿、真っ赤な着物姿、とばらばらだった。歌うような声が聞こえたという患者もいた。何も見えなくても雰囲気にのまれて泣き出す人がいたりして、深夜の病棟はパニック状態になった。
竹尾さんたちは、必死で患者たちを落ち着かせ、病室の電気を点けた。明るくなった病室から見ると、中庭には誰もいなかった。
念のために警備員が中庭に出て調べたけど、人のいた気配は無く、結局は暑さによる夏の深夜の集団幻覚という事になった。
そして、その日を最後に「中庭の井戸の側に立つ人」は目撃されなくなった。
やがて病院も新しく建て替えられて、竹尾さんも別の病院に移った。
色々妙な経験はしたけれど、あの深夜の大騒ぎだけは今考えてもさっぱり訳がわからない、と竹尾さんは話してくれた。
(昭和の話なので、看護婦と表記させてもらっています)