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第4話 帰還術式

「はぁ、はぁ……」


 どれくらい走ったのだろうか。


 足元の土は湿り気を帯び、靴底に絡みつくように重く、俺の息は白い霧となって冷たい空気に溶けていく。


 森の中は薄暗く、木々の間を縫うように差し込む陽光が、時折地面にまだらな影を落としていた。


 ハイウルフによる飛び掛かりを、俺は必死に木々を盾にして凌いだり、ローリングで回避したりしてきた。


 太い幹に爪が食い込む鋭い音や、地面を抉るその巨体が跳ねる振動が、今でも耳と体に残っている。


 でも、そんな応急処置のような抵抗も、そろそろ限界に近い。


 腕は鉛のように重く、膝が震え始めていた。


 息が切れて、肺が焼けるように苦しい。


 喉がカラカラで、吸い込むたびに冷たい空気が鋭く刺さるようだ。


 汗が額を伝い、目に入って視界を滲ませる。


 すると、突然、ハイウルフが追いかけてくるのを止めた。


 その場で立ち止まり、首を天に突き上げるようにして、低く響く雄叫びを上げ始めたのだ。


 ゴォオオオ……と腹の底から湧き上がるような咆哮が、森全体を震わせる。


「まさか、仲間を……!?」


 頭に浮かんだ最悪の想像に、俺の心臓がさらに激しく鼓動を刻む。


 だが、その思考を遮るように、頭の中に澄んだ声が響いた。


『いえ、宅人様! あれは魔物による詠唱です!』


 女神様が俺の心を読んだかのように、冷静に説明してくれる。


 その声は、まるで柔らかな光のように不安を少しだけ和らげてくれた。


 そうこうしている間に、ハイウルフの足元に異変が起きた。


 地面に赤黒い光が広がり、複雑な紋様が浮かび上がる――。


 あれが、魔法……。


 そこから、まるで生き物のようにうねる炎が噴き出し、チリチリと空気を焦がす熱が俺の肌にまで届いてきた。


 雑草が一瞬で灰になり、近くの木々の葉が黒く縮こまる。


 炎は赤々と揺らめき、まるでハイウルフの怒りを形にしたかのように荒々しく渦を巻いていた。


 目の前で繰り広げられる【魔法】という非現実的な光景に、俺は完全に目を奪われていた。


 現実感が薄れ、ただ呆然とその炎を見つめてしまう。


『っ! 宅人様、今です!』


「えっ!? い、今って何!?」


 女神様の鋭い声にハッと我に返り、慌てて意識を現実に引き戻す。


 頭が混乱して、状況を掴みきれていない。


『詠唱が完了してしまう前に、【帰還術式】を発動させてください!』


「発動させろって言われても、使い方なんてわからねぇぞ……!!」


 焦りが声に滲む。


 魔法なんて、さっきまでゲームやアニメの中でしか見たことのなかった俺に、どうしろっていうんだ?


『術式の起動で一番簡単なのは音声による起動です! “生まれし場所へ還れ、【帰還リターン】”と唱えてください!』


「ええいっ! ままよ!」


 もう考える余裕なんてない。


 勢いに任せて、俺は右手をハイウルフへと突き出し、全力で叫んだ。


「生まれし場所へ還れ! 【帰還リターン】!」


 その瞬間、手のひらから何か熱いものが流れ出すような感覚が走った。


 ――すると。


「ギャウッ!?」


 魔方陣から溢れ出ていた炎に、青白い鎖のようなものが突然巻き付いた。


 鎖はまるで意思を持っているかのようにうねり、炎を締め上げる。


 炎は抵抗するように激しく揺らめいたが、次第にその勢いを失っていく。


「えっ、炎が……消えた?」


 鎖に吸い込まれるように、炎はみるみる小さくなり、やがて完全にその姿を消してしまった。


 さっきまで感じていた熱量が一瞬にして消え去り、森の中に静寂が戻る。


 俺は呆然とその光景を見つめ、頭が追いつかない。


『やりました! 宅人様、成功です!』


 女神様が弾んだ声で喜びを伝えてくる。


 その声に、ようやく現実感が戻ってきた。


「やったのか……?」


 まだ実感が湧かないが、とにかく成功したらしい。


 ハイウルフは自分の魔法が突然掻き消えたことに酷く狼狽え、キョロキョロと周囲を見回しながら、落ち着きなくその場をぐるぐると回っていた。


 鋭い牙を剥き出しにしたその顔は、怒りと混乱が入り混じった表情だ。


 そして、そいつのちょうど真上には、先ほど炎を掻き消した青白い鎖のようなものが、ふわふわと宙に浮かんでいる。


 鎖は半透明で、淡く光を放ちながら、まるで水面に漂う糸のように揺れていた。


「そもそも鎖? え。何で浮いてんの? 何で鎖で炎消えんの?」


 頭の中が疑問で溢れかえる。


 だが、そんな俺の思考を再び女神様の声が遮った。


『宅人様!』


「はいっ! すみません!」


 いかん。


 また思考に囚われてしまった。


 ハイウルフが混乱している今がチャンスだ。


 ここから早く逃げなければ。


「ありがとうございます、女神様! これで逃げれ……」


『最初は凄く痛いと思いますが、頑張って耐えてください!』


「そうで、え? ちょっ、鎖が俺の中に入っア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!?」


 女神様の言葉を理解する間もなく、宙に浮いていた青白い鎖が動き出した。


まるで蛇のようにうねりながら、俺の胸めがけて突き進んできた。


 そして、次の瞬間――鎖が俺の体を突き破り、体内へと侵入してきたのだ。


「うっ……!」


 鋭い痛みが全身を貫き、思わず息が止まる。


 鎖は冷たく、そして熱く、体内を駆け巡るように移動していく。


 皮膚の下を這うような感覚と、内側から突き上げるような激痛が混ざり合い、俺の意識を乱す。


 やがてその鎖は、心臓付近でピタリと止まった。


「かはっ……」


 あまりの痛みに膝をつき、地面に両手をついてしまう。


 冷たい土の感触が掌に伝わるが、そんなこと気にする余裕もない。


「なん、だよ……これ……!?」


 声が震え、汗が地面に滴り落ちる。


 体が熱を持ち、頭がクラクラする。


『それは【帰還術式】における、溢れ出した力を分解するという能力の応用です。詳しい説明は後でします! 来ます!』


「グゥルル……。ガァッ!!」


 ハッとして顔を上げると、ハイウルフが牙を剥き、すぐそこまで迫ってきていた。


 赤い目がギラリと光り、唾液を滴らせた口から熱い息が漏れている。


 その巨体が地面を震わせながら、俺に向かって一直線に突進してくる。


「やばい、殺される……!」


 体が動かない。


 痛みで膝がガクガク震え、立ち上がる力すら残っていない。


「ぐっ……!」


 それでも、咄嗟に俺は拳を前に突き出していた。

無意識の行動だった。


死にたくないという本能が、体を動かしたのだ。


「グルル……。ガルアッ!?」


 だが、その牙が俺に触れることはなかった。


 先ほどの青白い鎖のような光が、俺の全身から拳へと一気に流れ込み、まるで電流のように迸った。


「おおぉぉおらあぁああ!!!」


 叫びと共に、拳を振り下ろす。


 光を帯びた拳は、ハイウルフの頭部に直撃し、その巨体を殴り飛ばした。


 ゴォン! と鈍い音が響き、ハイウルフは宙を舞い、そびえ立つ木にその身体を強かに打ち付けられた。


 木の幹が軋む音と共に、葉がバラバラと散り落ちる。


 そしてそのまま、ハイウルフは地面に崩れ落ち、ぴくりとも動かなくなってしまった。


「……何が起きたんだ?」


 呆然と立ち尽くす俺。


 拳から漂う青白い光が、ゆっくりと消えていく。


『宅人様、ご無事ですか?』


「は、はい。なんとか……」


 フラフラになりながらも立ち上がり、殴り飛ばしたハイウルフを見る。


そいつは完全に息絶え、血が地面にじんわりと広がっていた。


「やった、のか?」


『えっと……。はい! そのようですね』


「た、助かったぁ……」


 安心感からか、思わず深い溜め息を吐いてしまう。


全身の力が抜け、膝が再びガクンと落ちそうになる。


『ふぅ。お疲れ様です、宅人様』


 女神様も安心したかのように息を吐いていた。


 これが……戦い。


 現代の日本では、まず体験することのない命のやり取りに、今更ながら俺の身体は震えていた。


 手を見ると、微かに震えが止まらない。


 さっきまで生きていたものが、俺の手で死んだ。


 頭の中でその事実がぐるぐると回り続ける。


「俺が、殺したんだよな……」


 せめて、ちゃんと埋めてやらないと。


 命を絶った張本人である俺がこんなことしても、偽善でしかないのかもしれない。


 それでも、初めて魔物とはいえ獣をこの手で殺した罪悪感に、俺の頭は支配されていた。


「ごめん、な……」


 そう呟かずには、いられなかった。


『――今のは本当に、中級魔狼ハイウルフだったのでしょうか……?』


 女神様が小さく漏らした声に耳を傾けるほど、俺の心に余裕はなかった。



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