俺にとって【日常】というものは、得てして退屈なものであった。
毎日同じ時間に起きて、同じ道を歩いて、同じ教室で同じ顔ぶれと過ごす。
窓の外を眺めても、灰色の校舎と曇った空が広がっているだけだ。刺激なんてどこにもない。
せいぜい、昼休みにクラスメートが騒ぐ声が耳障りなくらいで、それすらも最近は慣れてしまって、何の感情も湧かなくなっていた。
「ねえ、聞いた? また
「嘘っ! 今月入ってもう何人目? アタシもう怖くて勉強に身が入らないよ!」
「それはいつもでしょうが」
ネットニュースを見てガヤガヤと騒ぐクラスメートを尻目に、俺は机に突っ伏した。
ロスト――消失性災害。
最近よく耳にする言葉だ。
人が突然消えて、二度と戻らない謎の現象。
原因も分からないし、政府の発表も曖昧で、ただ「気を付けてください」と繰り返すだけ。
ネットでは陰謀論が飛び交ってるらしいけど、そんなのに興味を持つ気力すら俺にはなかった。
どうせ俺には関係ない。そう思っていた。
「こらっ!
頭に軽い衝撃が走り、俺は反射的に顔を上げた。
目の前には、幼馴染の
「って。何すんだよ、
折角の昼休みに一眠りしようとしていたところを脳天にチョップという最悪な方法で起こされた俺は、不機嫌そうな顔を幼馴染みの少女に向けた。
「なによ、その顔は。人が起こしてやったのに、ありがとうの一言も言えないわけ?」
「はいはい。彩華は偉いなー」
適当にあしらうと、彼女はムッとした顔で唇を尖らせた。
俺はふと、彼女の頭に手を伸ばす。綺麗にセットされた栗色のツーサイドアップが指先に触れる。
柔らかくて、少し湿気を含んだ髪の感触が妙にクセになり、俺は無意識にワシャワシャと撫で回した。
「あ、頭撫でるなっ! 髪が乱れる!」
そう言いながらも一向に手を振り払おうとしないこいつはなんなんだろうか。
綺麗にセットされたであろう栗色のツーサイドアップをワシャワシャと撫でる。
つり目がちの目をいからせて、空色の瞳をこちらに向けてくるが、ワーギャーと顔を真っ赤にして喚くだけである。
「
「ねー」
「誰と誰がイチャついてるですって?」
彩華は俺達を見てヒソヒソと何か話していたクラスメートを一睨みで黙らせると、こちらへと向き直った。
いい加減、頭から手を離してやる。
「あっ……」
「どうした?」
「……別に。何でもないわよ」
なんだ、その不満そうな顔は。
なら、もっと撫でてやる。
「ワシャワシャワシャワシャワシャ~」
「両手で撫でんな! 私は犬かなんかか!」
流石に抵抗しだした彩華をこれでもかと撫で回す。
彼女も、本気で嫌がってるわけではなく、ただ一種のコミュニケーションとして受け入れている。
俺にとって【日常】は得てして退屈なものだ。
でも。俺にとって【
つまらない日常ってやつも、案外悪くないかもしれないな。
「はい。これで終わり」
「やっと終わったぜ……。長かったなぁ」
放課後になり、俺は机の上に広げていたノートを閉じると、グッと伸びをした。
なぜ、こんなに疲労困憊なのかのいうと、今日出された課題を終わらせたのだ。
ちなみにだが、帰ってからやればいいと進言したところ、
『あんた、私が見てないと課題サボるでしょうが』
と図星をつかれてしまい、しぶしぶ課題に取り組んだ、というわけだ。
俺は帰ったら飯食って寝るという大事な用があるんだ。課題なんてしている暇があるわけない。
ふと、窓の外をみると、運動部がランニングをしている姿が見えた。
確か陸上部だったかな? 彩華もその中に入っているはずだ。
陸上のユニフォームを着て走る姿は凛々しくてとてもカッコよかった覚えがある。
あいつが走っているところを見る度に、胸の奥がキュッとなるような感覚を覚えたものだが。
「いま、イヤラシイ目で見てたでしょ……」
今は違う意味で胸の奥がキュッとなっていた。
ジト目で睨んでくる幼馴染の顔に視線を逸らすことでなんとか誤魔化すことに成功したものの、今度は背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
「まあ、それは置いといてさ。彩華、お前部活はいいのか?」
「うっさい。アンタこそいいの? 補習受けてる割には余裕ありそうだけど」
「俺は追い詰められるほど燃えるタイプなんだよ」
「はいはい。そういうことにしておくわ」
「おい、信じてねぇな!?」
彩華は、俺の言葉を笑って聞き流すと、席を立ちあがった。
「じゃ、そろそろ帰りましょうか」
「ったく。そうだな。腹減ったぁ……」
「…………」
「なんだよ?」
彩華は何も言わずにこちらを見つめてくると、大きなため息を吐いた。
「なんでもないわ。ほら、早く帰る準備する!」
「へいへーい」
彩華に急かされ、ノートや筆記用具類をバッグにしまい、教室を後にする。
「鍵掛けよーし。んじゃ、職員室に鍵返しに行くか」
「忘れ物はない?」
「ねぇよ。ほら、行くべ」
彩華と共に、階段を下る。
「ところで、今日の晩御飯は何?」
「んー、昨日作った肉団子がまだ残ってるから、それに白菜を加えてスープにしちゃうとか?」
「おお! いいじゃん! 俺、彩華の作ったスープ好きなんだよな」
「知ってる」
彩華は微笑むと、「私も好き」と言ってくれた。
「彩華は料理上手だからな」
「なによ、いきなり褒めてきて。気持ち悪いわね」
「事実を述べたまでだ」
「はいはい」
彩華は呆れたように肩をすくめると、再び前を向いて歩き出した。
俺も彩華の隣について歩く。
「あっ、待って。一個だけ」
「あん?」
突然、何かを思い出したかのように彩華は振り返ると、俺の目の前に立って背伸びをして頬に手を伸ばしてきた。
「ちょ、近いんだけど……」
「動かないで」
彩華は、真剣な表情でこちらを見ると、指先でそっと触れてくる。俺の心臓はドキドキと高鳴っていた。
「うん。取れた。やっぱり、ついてたわよ。消しゴムのカス」
「……ああ、なんだ。そんなことかよ。ビックリさせやがって」
きっと課題をやっているときにでも付いたのだろう。
まったく、驚かせやがって。
「もう取っちゃったから意味ないかもだけど……はい、じっとしてなさい」
彩華は自分のポケットからハンカチを取り出すと、それで俺の頬を拭いてくれた。
「お、おう……。さんきゅ」
「はい、終わり。さ、行きましょ」
「お、おう……」
なんか、こういうのもいいかもな……
彩華とは小さい頃からずっと一緒にいるが、高校に入ってからというもの、妙に距離感が近くなった気がした。
何気ないことなのに、凄く幸せな気分になる。
「…………」
「どうしたの? ニヤけちゃって」
「なんでもねぇ。ほら、着いたぞ」
職員室の扉をガラガラと開け、「失礼しまーす」と中に入る。
彩華はちゃんと一礼してから入室した。
「先生、お疲れ様です」
「おお、相原じゃないか。どうした? 忘れ物か?」
「いえ、今日の課題をやってましたので、教室の鍵を返しに」
担任の教師がその言葉を聞くなり、目を丸くして驚いていた。
「珍しいな。お前が課題をやるなんて」
「どういうことっすか。先生」
「自分の胸に手を当てて考えてみなさいよ」
「一色も一緒か。なら珍しくもなかったか」
「グレそう」
俺は豪快に笑う武田先生に鍵を渡した。
「ご苦労。じゃあ、また――」
『今日のニュースです』
武田先生が、俺達に帰ろうと促そうとした時だった。
職員室内にあるテレビ画面に、ニュース番組が流れ始めた。
『本日、国内の消失性災害、ロストによる被害は四名。今月に入って、十名の被害となってしまいました』
ニュースキャスターの女性は淡々と読み上げていく。
『なお、この被害による死者、及び傷害はまだ確認されておらず、ロストの前兆として、強い金属音のような耳鳴りが聞こえるとのことです。このままでは犠牲者は増える一方であり、政府は早急な対策を取るべく、特別会議を開く模様です。次のニュースです。最近多発している失踪事件について――』
画面を眺めていた俺は、彩華に視線を移す。すると、彩華の顔色が少し悪くなっていることに気がついた。
「彩華?」
「大丈夫よ。気にしないで」
彩華は心配するなと言うように、笑顔を向けてくれる。
「そういえば、相原のとこもロストにあったんだよな……」
「先生っ!」
「す、すまんっ。失言だったな。相原、すまない」
「いえ、大丈夫です」
武田先生は申し訳なさそうな顔をしていた。
――消失性災害、通称、ロスト。
それはある日突然、人が消えてしまう現象である。
原因不明のこの現象は、昼夜場所を選ばず突如現れ、人々を襲っている。
消えた人間は二度と戻らないと言われており、行方不明者が続出していた。
俺達が通う高校でも既に何人かが行方不明になっている。
俺の、両親も……。
「彩華、帰ろうぜ」
「……ええ」
俺達は他の先生に挨拶してから、職員室を出た。
「なぁ、彩華」
「ん?」
「その……明日も一緒に帰っていいか?」
「……別にいいけど。なんで? 急に」
彩華は不思議そうに首を傾げている。
「いや、ちょっと……」
ちょっとさみしくなって彩華と一緒に帰りたいだけなんて言ったら、笑われるかな?
「なによ。はっきり言いなさいよね」
彩華はジト目で俺を見つめてきた。
「そ、そうだな……」
恥ずかしくて言えない。
「あ~。なるほどね。そういうこと」
彩華は納得したような顔を浮かべると、俺の腕を組んできた。
「ちょっ!?」
「ふふん。それならそうと早く言えば良いのに」
彩華はとても上機嫌だ。鼻歌まで歌っている。
くそぅ……可愛い……
彩華は俺の幼馴染だが、美人だしスタイルも良いし、勉強もできる。おまけに性格だって優しいときてる。非の打ち所がないのだ。
ただ、一つ欠点があるとすれば……。
「ねぇ」
「な、なんだよ」
「あんまり、一人で抱え込むんじゃないわよ?」
「わ、わかってるって」
彼女は心配性なところだろうか……。
「むー……。本当にわかってるかしら」
くっ!近い……。
彩華は俺の顔を覗き込んでくると、そのまま見上げてくる。
そんなに見つめんな……。
「おい、離れろって」
「嫌」
「お前なぁ……。わかったから離れてくんないか」
「もぅ、しょうがないわね……」
彩華はしぶしぶと離れる。
まったく、こっちの気も知らないで……。
「宅人!」
「うおっ」
突然、彩華が大声を出した。
「な、なんだよ。彩華」
彩華はニッコリと笑うと、トテトテと俺の少し前まで歩いていった。
そして、こちらを振り替えると、
「無理すんじゃないわよ!あんたには、私がいるんだから!」
「……おう」
彩華の満面の笑顔に俺は思わずドキッとしてしてしまった。
こんな日常が続くなら、少しくらいつまらなくても、別にいいかも――。
――キイィィィィィィィイイン!
耳を劈く金属音が響き渡った。
「えっ、嘘っ。嫌っ……!」
俺は反射的に耳を塞ぐ。
視界が揺れ、頭が締め付けられるような痛みが俺を襲う。
「ガ、ァッ!?」
「いやっ! 助けて、宅人!」
「あや、か……」
彩華の叫び声に目を向けると、彼女の足が膝下から消えていた。
透明な何かに溶けるように、ゆっくりと崩れていく。
彼女が必死に手を伸ばす姿が、目の前に焼き付いた。
「彩華っ!? あやかぁぁぁぁぁ!!」
俺は這うように彼女へ近づく。耳鳴りが頭を砕きそうにうるさい。身体が鉛のように重く、腕を伸ばすたびに骨が軋む感覚がした。
くそっ! なんで手を離した!
なんで彩華が……!
ふざけんなよ……何だよこれ……!
俺は彩華の手を掴むために、さらに手を伸ばしていく。
「ぐ、ああっ……」
まるで、自分の身体じゃないみたいに重い。
それでも、彩華を助けるため、俺は限界を超えて腕を伸ばした。
「彩華ぁあああ!!!」
「――っ」
彩華が完全に消える寸前、彼女の指に触れた瞬間、世界は光に包まれていった。
『……ようやく、割り込めることができました』
瞬間、そんな声が、聞こえたような、気がした――。