昭和のいつか。どこかにある高校。季節は春。
苦手な数学の時間は職員室へ届けを出し、保健室でサボる俺。
保健室担当の先生はいない。三つあるベッドのうち、一番奥は仕切りカーテンが閉まっているから使用中みたいだ。上履きの色からすると女子。
奥が良かったんだが仕方ない、一番手前のベッドへ寝転がる。いつものように図書室から無断で持ち出したSF小説を読んでいると、仕切りカーテンの動く音。奥のベッドの女子はお帰りらしい。
するといきなり俺が寝ているベッドの仕切りカーテンが開かれた。
「……え? 佐藤さん?」
隣のクラスの佐藤優子だ。
「何してるの? ◯◯君?」
「ここでサボってるんだよ」
クラスは一緒になったことないが、同じ中学出身の色白和風美人。中三で転校生してきて『可愛い子が来た!』って男子が色めき立っていたな。
「サボるなんて悪い子。よくあるの?」
「数学の時だけ。苦手なんだよ」
俺をじっと見つめる黒い瞳。俺も見つめ返す。
こうやって面と向かってみたら、かなりの美形だと改めて思う。艶のある黒髪、透けるような白い肌、まるで時代劇に登場する姫様みたい。
「隣、いい?」
言うが早いか彼女は俺のベッドに腰を下ろす。
ええ?
佐藤優子のあまりに大胆な行動、驚きすぎると言葉が出ないんだと初めて知った俺。返事も出来なかった。
授業中、保健室で綺麗な女子と二人きりという状況に俺の鼓動は加速する。
彼女は俺の耳元に顔を寄せてきた。近い! 近い! 思い詰めたような目が怖いんだけど!
「ねぇ、◯◯君にお願いがあるんだけど?」
「……お、お願いとは?」
「ちょっとだけ血を吸わせて」
言うが早いか俺の首筋に唇を寄せる佐藤優子。
「あ……」
甘い女子の香りに包まれ、痺れたように身体が動かせない。
彼女の唇の感覚がすごく心地良い。吐息がかかるとそこが熱を持つ。
俺の心臓が送り出した血液が頸動脈を通過しているところを、彼女によって啜られている感覚。……なぜかそれがたまらなく心地よくて、このままどうなってもいいとさえ思える。
「ごめんなさい、ちょっと我慢できなくて……。ごちそうさま」
目を伏せ俯き、ティッシュで口を拭っている佐藤優子。
なんだ。
なんだこれ。
何が起きた?
あの佐藤優子が、俺の首筋に、吸い付いて、血を吸った。血を吸った? 血を?
頭の中は混乱してるが、なぜか気分は落ち着いてる。これまで経験したことのない気分の俺が、最初に発した言葉は自分でも変だと思う。
「……佐藤さんって、吸血鬼……なのか?」
彼女はふいと顔をあげ笑ってるような泣いているような表情を浮かべている。
「世間じゃそう呼ぶわね」
「昼間なんだけど、日光平気なわけ?」
保健室の窓からは春の陽光が差し込んでいる。吸血鬼なら苦悶の表情を浮かべて灰になるはず。
「それは人間が物語の中で作り上げたものでしょ」
なんと! 日光が弱点じゃない!
「じゃ、ニンニクは?」
「ニンニクは匂いがキツいからあまり食べない」
おおっと! ただの食材だとおっしゃる!
こんな質問している場合じゃない。わかってる。でも好奇心が抑えられない。
「十字架は?」
「別に。私ね、キリスト教が伝わる前から日本に住んでるのよ?」
「は……? え? それって……おばあちゃ」
すっと彼女の細い指で唇を押さえられる。目が怖いです、佐藤さん。
「失礼なこと言わない」
「スミマセン」
確かキリスト教の伝来は戦国時代……何百年も生きているのに、どこからどう見ても女子高生だ。
「フィクションの吸血鬼って要は病原菌のイメージでしょう? 細菌の弱点として日光は紫外線、ニンニクは殺菌効果。流水の上を渡れないってのは細菌が繁殖しにくいから」
「……言われてみれば」
現実の吸血鬼には弱点が無かった。
「心臓に杭を打たれたら……?」
「逆に聞くけど、それをされて平気な生き物っているのかしら?」
「た、確かに」
俺の中にあった吸血鬼伯爵のイメージは、粉々に砕け散ったのだった。
「あなたの血、すごく美味しい。あまり肉を食べないでしょ?」
「あーうん。肉は母親があまり好きじゃなくて、我が家の食卓にはほぼ出ないかな」
おかげで育ち盛りの俺は肉を食べる機会はほぼ無い。
「ごめんね。ここ二年ほど吸ってなかったから。身体に力が入らなくて、最近はずっと保健室通いだったの」
「それはそれですごい省燃費」
「これからもよろしくね」
「はぁ……俺も吸血鬼になってしまうのか……」
「ならないわよ。それも作り事」
安心するような、少し残念なような。
「ここでサボってること内緒にしてあげるから、ね?」
「お、おう」
吸血鬼な女子高生、佐藤優子はひらりと立ち上がると保健室を出て行った。
あれか? 俺が逆らえなかったのって吸血鬼の能力なのかな。吸血鬼に見つめられると犠牲者が抵抗できなくなってた映画のシーンが頭に浮かぶ。
立ち上がり、鏡に写った自分の首を触ってみたが、傷跡どころか血の一滴もついてない。牙を突き立てるわけではないのか。痛くなかったしな。
子どもの頃、用水路でザリガニ捕りをしていると、いつの間にか足にくっついてたヒル。痛みも何もなかったよなぁ。あれと同じか。
そんなことを考えながら教室への戻った俺だが、そこから記憶が曖昧になる。ただ佐藤優子の唇が首筋に触れた感触だけは鮮明に思い出せた。
翌日。廊下ですれ違った佐藤優子が、俺に向かって笑顔で小さく手を振る。
俺は反応せずにいたが、クラスの井田って奴に『なんで佐藤がお前に手を振るんだよ』と詰め寄られたが『知らんよ。見間違いだろ』と、すっとぼけるしかなかったのは後の話。
高校二年の春、吸血鬼佐藤優子とのコンタクトは、俺の中の吸血鬼像を大きく変えた。
ああ、人間の彼女が欲しい。