十字岳人が奇妙な気配を感じたのは、アパートの扉を開けた時だった。
「……」
甘ったるい匂いと、すえた臭いが混じった嫌な臭いだ。断じて時巡ではない。扉を勢いよく開け、土足のまま踏み入る。
男が居た。自分の家のようにくつろいでいる男は、饅頭を食べながら言った。
「この家は茶も出ないのか?」
「ああ?」
思わず声が出た。
若干毒気が抜かれたのは確かだが、不法侵入者なのは確かだ。何時でも重力を掛けられるよう構える。
「ああ、これお土産ね。それで茶は?」
男は意に介さず、既に半分は男の胃に消えたであろう、饅頭の箱を差し出した。
「……誰だ、何の用だ?」
素性も目的も不明だ。他に仲間がいないか、素早く周囲を確認する。
「だから、茶はねえのかって!?」
「出すわけないだろうが! 何なんだよお前は!?」
男は「何だこの家は」と勝手な事を言いながら、鞄からペットボトルを取り出した。
「……」
いっそのこと倒してしまおうかと思ったが、ぐっと堪え様子を見ることにした。
「全く、せっかく助けてやろうと思ったのに」
助ける?
「……」
「おーおー、興味津々ってか? 俺は優しいから、お前の無礼も許してやるわ」
男は包装紙を開け、饅頭を口に入れた。
そのまま租借を続け話し続ける。
「お前北海道で『ミュージアム』に手ぇ出したろ。『コレクター』に完全に目ぇ付けられたぞ」
不可抗力だった。等という言い訳は、『コレクター』は勿論この男にも通用しないのだろう。男は続けた。
「で、俺が仕入れた情報によると、『コレクター』が本格的に反乱分子を排除することにしたらしい」
なるほどそれは大変な状況だ。
「で、お前が『コレクター』から俺を助けてくれるのか?」
「半分正解だなぁ」
男はペットボトルのお茶を勢いよく飲み込んだ。
「俺はこれでも愛国者だ。この国を『コレクター』の好きにはさせたくない。だから戦力が必要だし、仲間を守るためならいくらでも手を貸す」
つまり
「お前の手駒になれば助けてやるか? くだらない」
「手駒じゃねえって、仲間だよ。それにもう1つ、俺にはカードがあるんだな」
男は写真を取り出した。
見知らぬ男。垢の浮いた浮浪者だ。その男が何だというのだ。
「時巡小太郎。探してるんだろ、知ってるぞ、居場所」
……随分と、俺について調べたらしい。
探偵も結局役に立たなかった。今の俺にとっては、自分自身の生死よりも、ある意味では関心のある情報だ。
話が旨すぎるようにも思えるが、今は乗るべきだろう。
「分かった。俺は何をすれば良い?」
「話が早くて助かるぜ」
そして男は立ち上がり、手を差し伸べた。
「
「十字岳人。そうならないよう努力するさ」
握手を交わしたが、すぐに手を離した。
「おい、べたつくぞ」
「油かな? さっきバイク弄ってたんだよ」
「あぶ……! お前ふざけんなよ!」
べたべたと辺りの物を触っていないだろうな、と注意深く周囲を見渡しながら洗面台へ向かう。
蛇口をひねり、手を洗った。石鹸ならなんとか落ちそうだ。
「……?」
水を止め、気がついた。水が下水道へと流れ落ちない。
それどころか、水位が上昇している。
「おい!」
榎木に声をかけ、大きく後退する。その瞬間水が間欠泉のように噴き出した。
「敵襲か!? 気が早えーな、おい!」
榎木は水が噴き出したのを確認すると、躊躇なく窓を破りベランダから飛び出した。俺も続いて窓から飛び降りる。
「守るんじゃなかったのか!」
「いや流石にこれは想定外だ。あと今の俺は分身だから、戦闘力は期待しないで欲しい!」
「ああ!?」
分身能力なら、どんなに大きく見積っても半分だ。分身能力は自身を分ける能力。
「俺は仲間に連絡してくる! 1人で頑張ってくれ!」
「そうしとけ!」
水は今も溢れだしているようだ。ベランダからは既に滝のように流れ出ている。
(臭いはない。下水じゃないな)
水の能力者。
しかし下水から侵入できるとなると……。
(マンホール!)
案の定だった。
背後にあるマンホールが轟音を立て吹き飛び、水が溢れだす。
自身と水に対し斥力を発生させ、水鉄砲を防ぐ。爆発したように水飛沫が周囲にたちこめた。
霧散した水は再度集結し、人型となる。人型が口を開き、空気を震わせた。
「失敗した。失敗」
それは紛れもなく人間の言葉だった。水の操作では収まらないその異能。
(ステージ2。厄介だな)
しかし、何故敢えてステージの情報を漏らしたのか。単純な馬鹿なら良いが――
(……なんだ?)
途端、周囲がぐにゃりと曲がる。歪んだ地面に立っていられない。狂った平衡感覚が吐き気をもたらす。
これは、毒だ。おそらく水そのものが。僅かな飛沫ですら効果がある。
十分に観察し終えただろう水の人型が再度口を開いた。
「嘘だよん。これで俺の勝ち。昇進けってーい」
苛つき紛れに水を重力で圧し潰す。
だが元より水なのだ。何ら効果はない。再度人型へと再生した。
本体を倒さなければならない。それも速やかにだ。
(幸い、意識はクリアだ。敵も離れた場所には居ない筈)
最も可能性が高いのが、マンホールの中、下水道になるか。
(近づけないがな。なら、仕方がない)
ステージ2に上がったことにより、能力の基礎出力も上がっている。
だから地上から下水道を潰すことすら可能だ。
アスファルトの地面が埋没し、毒でやられていることもあって、倒れ込んでしまう。
(どうだ……!)
水が再度集結する。
「あっぶね。でも外れだよん」
「……くそ」
思わず悪態が漏れた。倒れ込んだ際、びしょ濡れになってしまった。それがどういう意味かは、これから嫌というほど思い知らされるだろう。
(だけど……!)
腹に喝を入れる。膝を震わせ立ち上がる。
「諦めねえぞ……!」
窮地でも絶望するなと北海道で教わったではないか。水に濡れたから何だというのだ。そんなに水が恐ろしいなら、皮膚が弾けるほどの斥力で吹き飛ばしてしまえば良い。
こいつは『コレクター』の配下。悪の怪人。ならばどうしてヒーローが膝を突くというのだ。
「良い啖呵だ。仲間に申し分ない」
肩に手を置かれる。気がついたら、としか言いようがない。隣に見知らぬ男が居た。
男は濡れるのも構わず、俺を抱えるように肩に手を回す。
「毒……!」
「問題ない。もう終わってる」
男が言い終えた瞬間、背後から雷鳴が響く。俺のアパート、それも隣の部屋だ。そして同時に、水の人型が霧散した。
そして、アパートの窓から出てきたのは、水無月竜輝。
「岳人! 生きてる!?」
どうしてお前がここに、という言葉は口から出てこなかった。
如何せん毒が抜けたばかりで、まだ眩暈が残っているのだ。
*
あの場には居られないということで、休む間もなく、車に乗り込んだ。
「事情を説明すれば良いだろ」
「『コレクター』の手は警察にも及んでいるから駄目だってさ」
竜輝が答えた。
それが本当なら俺が想定した以上に不味い状況だが、今はひとまず脇に置いておいた。不明点が多すぎる。最も簡単に解決できそうな疑問から解消することにした。
「それで、どうしてお前がここに?」
「それは勿論岳人を助けに……って嘘々、そういう事じゃないよね」
竜輝も、いや正確に言えば、アリスも『コレクター』に襲われたらしい。俺の時とは異なり、銃器で武装した集団だったらしいが。よくも凌げたものだ。
「うん、頑張ったよ。お陰でステージが上がったよ」
ピースをして自慢気に言うのは、空元気だと傍目にも理解できた。
「……結局、アリスに平穏が訪れることはないのは、よく理解できたよ」
『真世界』が潰れた矢先の出来事だ。
アリスの能力は強力無比。世界を狙う連中にとっては、何としても押さえておきたい能力なのだろう。
「それでも守るんだろう?」
「……そうだね。その通りだ」
確かな決意を感じる言葉だった。俺も彼のように強くならねばならないだろう。
「青春してるとこ悪いけどな、そろそろ到着だ」
先ほど俺の肩を支えていた、名前を
停まったのは住宅街にある、何の変哲もない一軒家だった。
「ここは支部だ。本部は山奥だから億劫だろ?」
それなりに大きい組織なのだろう。
「よく帰ってきたなお前ら」
玄関では榎木文太が出迎えていた。
時巡小太郎について聞きたいところだが、残念ながら、今は『コレクター』について優先すべきだろう。
「早速で悪いんだが――」
「分かってる分かってる」
榎木は手を水平に差し出し、俺の言葉を遮った。
「時巡小太郎だろ? ちゃんと教えるって、今すぐ」
「いや」
「今は写真通りホームレスしてるってよ、場所は――」
「違う! 今は『コレクター』優先だろうが!」
「ははは、榎木さんは相変わらずだね」
竜輝が他人事のように笑った。
「岳人。今は探りを入れている最中らしいから、君の目的を優先する時間はあるよ」
それどころか、『コレクター』についてはほとんど分かっていないと竜輝は続けた。
俺が警察に所属していた時も、『コレクター』は謎の人物だった。あの時から大きく動いたというのに、相も変わらず謎の人物とは。
「これ言うと竜輝は怒るかもしれないけどな、今はチャンスなんだってよ」
成田は続けた。
「アリスには『コレクター』もご執心らしい。彼の手駒は銃を所持していたが、あれは足がつきやすい。取引先の特定ももう完了した。『コレクター』の喉元までそう遠くない」
朗報と言えば朗報だが、それはつまりアリスを囮にするということだろう。
竜輝を盗み見る。彼に変わった様子はない。
(意外だな。そういう判断ができるのか)
俺には、できるだろうか。少し前なら迷うことなく頷いただろうが。
「何で俺を無視して話進めちゃうかなあ」
榎木は特に気にした風もなくぼやき、続けて言った。
「岳人ぉ、お前はとっとと心残り無くして来い。この支部には他に何人かいるが、顔合わせは別に後でも良いだろ」
本当に、今はやるべきことはないらしい。ならば厚意には甘えておこうと話に耳を傾けた。
*
岳人襲撃の数日前のことである。
「あのさあ、この作戦は失敗できないって言ったよね?」
正座したアホに向かって言った。
「……」
「何黙ってんだ殺すぞ」
アホは何かよく分からない鳴き声を垂れ流した。
「はぁーーーーーー……」
いや、落ち着け私。
アリスの排除に失敗したのは、まあ、何となくそんな事になる気はしていた。
勿論必要な戦力は揃えたし、細心の注意を払って寝込みを襲ったのだ。
それが何故かいつもは眠っている筈の深夜2時にも起きていて、しかも前情報になく水無月家の両親が家を出ていた。しかもしかも竜輝が銃に有利なステージ2に開花して、しかもしかもしかもしかも! この馬鹿は部下を置いて逃げたのだ。何の! 隠蔽もなく!
落ち着いて私。
(……後半部分はイレギュラーとカスが悪いが、前半はどういうことだ?)
完全にこちらの襲撃を読まれたということになる。
裏切者。青木霧江は始末した。だが他にもいるのだろう。
(炙り出すしかないか。そのためにも、盤上を動かす必要がありそうだ)
『ミュージアム警備員』の選出。裏切者の炙り出し。そしてアリスの確保。急にやるべきことが増えた気がする。
(計画を早めた弊害か。仕方がない)
これも全て、あの子の平穏のためだと思えば、まだまだ頑張れると思えた。