何もない。
家族も、故郷も、全て。
焼き払われ、この地上から消え失せた。
残されたのはこの小さな惨めな命ただ一つ。
汚泥を啜ってでも、生き残ってやると息巻いたものの
天は、自分を生かすつもりはないらしい。
「童、名を何という。何故、俺を襲った」
奇天烈な着物を着た武家の青年に、刀を突き付けられ絶体絶命の状況に陥っている。
腹を空かした極限の状態で、通り掛かった人に飛び掛かった様がこれだ。運が悪過ぎるとしか言い様がない。
「おい」
殺すなら、殺せばいい。
間違って生き残ってしまった自分など、この世で必要とされないだろうから。
「おい、答えろ!」
「いだぁッ!?」
突き付けられていた刀が離れ、地面へと頭を叩きつけられる。
鼻が折れたかもしれない。ジンと痛む鼻を不快に感じながら、起き上がろうとするが、それは青年の家来に遮られた。
どうやら、地面とまだ接吻してなければいけないらしい。
ああ、厄日。今日は厄日、決定だ。
「何だ、口が利けるんじゃないか。もう一度聞くぞ。小僧、名を何という」
ニヤリと口端を吊り上げて、自分を見下ろす青年を見据え小さく息を吐いた。
「名なんかないよ。それと僕は小僧じゃない。おにーさん。目玉さ、ちゃんと機能してるの?」
呆れたように、そう口にすれば、場の空気が凍った。
周囲の人間が青年を見れば、青年から笑みが消えている。
人を殺せそうな程に冷えきったその瞳にゾワリと肌が粟立つが、不思議と怖いとは思わなかった。
暫し見つめ合えば、青年は声高らかに笑う。
「良い度胸してるな。この俺に強気な態度を示してくるとは。童、死にたいのか」
「さあね。一応、生きたいとは思ったけど、僕には夢も希望も何もない。あるのは、嫌な烙印だけだし」
「……何?」
青年はそこでようやく、自分の髪色に気付いたようだった。汚れた布で隠していたそれは、不気味な程に赤い。
それは不吉とも呼べる一族の証――
「成程。貴様“あの一族”の生き残りか」
そうだとも違うとも、言わなかった。確かに、一族の血を引いてはいるが、誇りなるものは持っていない。
これからどうするか。考えるのはその一点のみだ。
「貴様、何が出来る」
「は?」
上手く聞き取れず、聞き返せば青年の眉間に皺が刻まれる。ピリッと肌を刺す殺気が、何処となく気持ち悪い。
青年を見上げていれば、不機嫌そうな息が漏れる。また刀を向けられるな、と身構えれば、真横に真剣が降ってきた。
「二度も同じ事を言わせるな。貴様は、一体何が出来る?」
「……得意なものは何もないよ。敢えてあげるとすれば、気配消しが上手いのと、薬の調合ぐらい」
刀に怯える事なく、へらりと作り笑いを浮かべ答えれば青年は満足そうに目を細めた。
「――上等だ。扱き甲斐がある」
「へ?」
顔を上げようとすれば、再び沈められた。青年の片足が頭上に乗っており、非常に重い。
視界が遮られたお陰で、声と音でしか状況が分からない状態だ。周りの雑音と青年の声しか耳に届かない。
「これは良い拾い物をした。勝三郎」
「――は」
「連れて行くぞ」
ザワリと更に周囲が騒ついた。
そりゃそうだと呆れた顔をしていれば、小柄な体格の男が声を上げる。
「お待ち下さい! 得体の知れぬ者を、連れ帰るなど……!!」
「黙れ、異論は聞かん。俺が気に入ったから連れて行く。良いな?」
有無を言わせない言葉に周囲の者は、黙って従うしかない。口に出せない不満は、全て自分を見る視線に注がれているようだ。
米俵のように担がれ馬に乗せられた。痛い程の視線と、揺れる視界に酔いそうになる。
目前に見えるのは地面と、馬の足。蹄が土を蹴るのがよく見え、振動が直に伝わってきた。
自分を前に置き手綱を握る彼は、家臣達の中でも体格が良い方らしい。チラリと横に目を移せば、先程声を上げた青年と目が合う。
鋭く睨まれたが、全然怖くない。むしろ構いたくなった。自由になったら悪戯してやろうか。
そんな事を考えながら顔を緩く上げ、手綱を握り走り続ける青年へ視線を移す。
ジッと見据えるが、此方を見ようともしない。存在を消し、荷物同様の扱いされているような気がする。
「なぁ、アンタ」
「…………」
「聞こえてる? おーい」
「……何だ」
溜め息と共に吐き出された声は、思っていたよりも低い。胡乱げな目付きで、自分を見つめてくる青年に笑い掛けた。
「さっきのおにーさんってさ、何者? 何処かの殿様なの?」
疑問を口にしてみたら、驚いたような表情を向けられた。
何か不味い事でも言ったのだろうか。
「……知らないのか」
「知らない。国が沢山あるのは分かるけど、把握してるのは地名ぐらいで、他の事はさっぱり」
情報は命だと教えられた気がするが、今の自分にとって腹を満たす事が一番の目的である。
市井の話や出来事など、興味は無かった。
「あの方は、尾張国主であり、那古野城城主であらせられる織田上総介信長様だ」
「ふうん……」
顔を左に向け、先を走る信長と言われる青年を見つめ頷きを返す。
城の殿様だと言われても、何も感じる事はない。名と身分を知れたと思うだけだ。
青年の正体よりも、土地の名前に食い付いてしまう。
「……此処、尾張だったんだ。知らない間に遠くまで来てたんだなぁ」
「……」
呆れたような、何とも言えない視線が自分へ向けられるが、無視だ。無視。国主よりも今後の生活が何よりも大事に決まっている。
「で? これから僕はどうなるの?」
「……さあな」
「殺されたりはしないよねぇ?」
「あの方、次第だろうな」
「えぇぇ?」
それは嫌だ、と声を上げるが青年から言葉が返ってくる事はなく、そのまま会話が途切れた。
対象がいなければ口を開く事もない。小さく息を吐いて、馬の蹄の音を聞きながら目を閉じる。
これが、全ての始まり。
長い長い、自分の歴史と
一族の居場所を得る旅の
始まりだったんだ。