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第7話-靄を纏ったのは、僕だった

「ただいま」


 帰宅の挨拶には、何の返事も無かった。こういう時の遙は眠っているか、ただ不機嫌で無視をしているかのどちらかだ。もっとも、まともな「ただいま」は人目がある時にしか聞いたことがないのだが。

 しかし、玄関には遙の靴そのものが無かった。どこかに出かけたのか……きっと、未だ尽きない父と不倫相手たちからの慰謝料と養育費を散財しに行ったのだろう。不倫相手の人数が人数だけに、遙は数十年は働かずに暮らせるだけの金を手に入れたそうだ。その金が千尋のために使われることなど、滅多に無かったわけだが。


(先生は、何であんなに僕に良くしてくれるんだろう)


 そればかりが、渦巻く。いくら担任とはいえ、さすがに踏み込み過ぎではないのだろうか。


(それとも……生徒みんなに、こうなのかな)


 だとしたらとんだ聖人だ。そんな教師ともっと早くに出会えていれば、自分の運命は変わっていたのだろうか。

 ただ、何だか靄がかかったかのような感触がある。その正体は、分からない。

 学ランをハンガーにかけていると、玄関扉が開く音がした。ハッとして、慌てて姿勢を正す。

 結局、あの帰宅を催促するメッセージから何も返していなかった。というのも、いつもなら返信しないだけで怒涛の連投が来るのだが今回はそれがなかったのだ。だからこそ、刺激しないように意識した結果だった。

 部屋の扉が、開かれる。遙はいつだってノックをしない。


「お、おかえり」


 何とかそう言えた。そして、気付いた。彼女の顔が、明るい。


「ただいま」


 声も、柔らかい。まるで、自分ではない他人にかける時の声だった。そのことに唖然としていると、遙の方から口を開いた。


「私、もうあんたの世話しないから」

「……え」


 唐突な内容に、思わず固まる。それでも彼女は、続けた。


「あんたの世話もしない。あんたのことも見ない。あんたがどう生きようと関係ない。この部屋だって私の目に入れない。バイトだって何だって好きにすればいい」

「か、母さ」

「ああでも、出ていくのは高校卒業してからね。卒業前に出て行ったなんて、近所に見られたらどう思われるか分からないから」


 彼女の顔は、まるで憑き物が取れたかのように華やかだった。けれど、扉を閉める手はやはり乱暴で。ガン、と蝶番が鳴くほどにまで力強く閉められた。

 あまりに唐突な宣告で、しばらく思考が止まった。しかし、動いた矢先に浮かんだのは。


(もう自由、ってこと?)


 友人を作るのも禁じられ、もちろんアルバイトや部活なんてもっての他で。そしてこの先は彼女のためだけに働く奴隷になるはずだった。

 けれど、彼女はそれを放棄した。その事実は、喜ばしいことのはずなのに。


(なんでなんだ……?)


 あまりに気になって、部屋を出る。すると遙は、リビングでテレビを観ていた。


「母さん」


 震える声を絞り出すように、声をかける。返事は無かった。


「母さん」


 もう一度声を掛ければ、遙の手が握り拳を作るのが見えた。まるで、いつもの衝動を押さえ込もうとしているかのようで……そんな姿は、初めてだった。

 気味が悪いのもあって、思わず後ずさる。その気配を察したのか、遙はこちらを見ることなく「あんたさ」と口にした。


「峰先生に、感謝しなさいよ」

「え?」


 それ以来、遙は口を閉じた。もう何も言えることがなくなって、千尋はとりあえず自室に戻ることにした。




「俺に感謝?」

「そう、言ってました。あの、何があったんですか?」


 翌日登校してすぐ、千尋は社会科準備室へ向かった。出勤したてだった峰は、荷物を下ろしながら「何も」と口にした。


「何も特別なことはしてないさ」

「先生として、ってことですか」

「そういうことだ」


 その言葉は予想通りだった。だからこそ、続ける。何となく、彼の目は見られなかった。


「それは僕以外だったとしても、こうしたってことですか」


 峰はパソコンを起動させながら、溜め息を吐く。


「だったら嫌なのか」


 その言葉は予想外で、息が詰まる。そんな千尋を、峰がじっと見た。そして、薄く笑う。


「冗談だ」

「嫌、かもです」


 二人の言葉は、同時だった。だからこそ、峰は一瞬目を見開いた。千尋の目は、未だに峰を見られない。


「ずっとモヤモヤしてたんです。でもやっと分かりました。僕以外にもそんなことしてるってなったら、そんなの」


 泣いているわけでもないのに、どもってしまう。それでも、峰は待っていた。


「……母さんにも見放されて、今、僕、誰の特別なのか……分からなくなる」


 遙は、間違いなく千尋を見ていた。それが憎い男と憎い女越しであっても、視線は千尋に終着点があった。

 結局、そこに重きを置いていた。母の憎しみを受け止めるために生きていた、と……そう言えなくなった、今。

 峰は再び、ため息を吐いた。


「誰かの特別なんて、案外簡単になれるもんさ」

「え」

「お前はこれから、そうしてくれる人に出会うチャンスを得たんだよ。だからそれを活かせって話だ。それが俺かどうかは、まだ分からないだろ」


 それは、つまり。


「……いつか僕を、先生の特別にしてくれるってこと?」


 千尋の絞り出した言葉に、峰は「さあな」とだけ返した。

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