顔の腫れが引いたおかげで登校できるようになったのは、三者面談から一週間が経った頃だった。下駄箱で靴を脱いでいる最中に「おっ」と声が聞こえたと思えば、グラウンドからこちらを覗く峰が見えた。
「久しぶりだな」
「……お久しぶりです」
彼は硬式テニス部の顧問だと言っていた。恐らく、朝練に出ていたのだろう。普段のシャツとスラックスではなく、スポーティなジャージ姿だった。
「風邪けっこう長引いてたんだな、もう大丈夫か」
「はい。すみません、心配かけて」
あくまで業務連絡のように、淡々と。あちらは分からないが、少なくとも千尋自身はそう心掛けながら言葉を返す。
近づきたくない、というのが本音だった。だからこそ手早く靴を下駄箱に押し込み、指定スリッパを履く。
「三者面談の件だが」
峰の言葉に、千尋の体が強張る。それを、確かに峰は見ていた。
「あ、あの……あの時言ったように、僕、大学行く気なくて」
母に殴られた時の記憶が冷や汗として伝ってくるのを感じながら、千尋は何とかそう絞り出した。しかし、どうやら峰には聞こえなかったらしい。まるで被さるように、口にした。
「お前の母親、大丈夫か」
「……え?」
何を言われているのか、一瞬分からなかった。そんな千尋に構わず、峰は続ける。
「いや、ちょっと気になってな。大丈夫ならそれでいいんだが」
「だ……大丈夫って、体調ですか」
「そっちじゃない、ってお前も分かってるんじゃないか」
冷や汗が、止まらない。
初めてだ、ここまで切り込まれたのは。かつて児童相談所に話が行った時すら、教師達は厄介ごとだと言わんばかりに避けてきていたのに。
「お前、今日時間あるか」
「じ、時間は……」
「無いなら作れ。休んでた分の強制補習ってことにしろ、いいな。放課後になったらすぐに社会科準備室に来い」
有無を言わせないようなほどに、その言葉は一方的だった。呆然とする千尋を見ることもなく、峰は再びグラウンドへと戻っていく。それも、駆け足だった。
まさか、これを伝えるためだけに抜けてきたのか。自分の、ために。
(言っていい、のかな)
峰の背中を見つめながら、千尋は息を飲むことしかできなかった。
悩んでいるうちに授業が六つ分終わり、放課後となった。
どうしても社会科準備室に向かうまでの足が重く、クラスメイトが全員教室を出た後でも千尋は席から動けないままだった。
(言っていいのか、結局決められてないや)
溜め息を吐いた途端、ポケットの中が振動した。慌ててスマートフォンを取り出すと、遙からのメッセージが届いている通知が見えた。
『早く帰れ』
「そっちが本性ってわけか」
突然背後から降ってきた声に、心臓が止まりそうになる。そのはずみで手が緩んで、スマートフォンが手から滑り落ちた。
「おっと」
大きな手が、スマートフォンを掴んだ。慌てて手から視線を向けると、声のとおり……峰だった。
「先生、何で」
「何でって、お前が全然来ないからだろうが」
そう言いながらも、峰はスマートフォンの画面をまじまじと見つめた。そして、指でスワイプを始める。その動きに千尋はぎょっとしたものの、何も言えなかった。
「……なるほどな、やっぱりそういうことか」
「やっぱり、って」
「ちょっと待ってろ」
そう呟きながら、峰はスマートフォンで何か文章を入力しているようだった。あまりの展開に、千尋は何も言えない上に動けない。
やがて、峰は千尋にスマートフォンを手渡してきた。彼の体温がわずかながら移ったスマートフォンに内心どきどきしながらも、画面を見る。
『今日補習があります。先生から残らないと酷い目に遭わせる、と言われました。ごめんなさい』
「これって……」
「お前の文章真似てみた」
「いや、それもですけど。その、酷い目って」
峰は「ああ」と視線だけで宙を仰いだ。
「お前が自主的に残るなんて言ったら、きっとブチギレんだろ」
「でもそうしたら、先生が悪いってことに」
「そんなの、三者面談の時点で散々言われてるんじゃないか」
何もかも、見透かされている。まさか遙とのメッセージを多少遡られたくらいで、そこまで分かられてしまうとは。
峰は頭を掻きながら、千尋の前の席に腰掛けた。そのまま、千尋の方へと椅子を向ける。
「俺も先生やって何年にもなるし、こういう家庭は何件か見てきてる。だから、何となくおかしいなって思った。そしたら実際おかしかった。それだけだよ」
いざ他者から「おかしい」と口にされると、少し胸が痛む。しかしそれ以上に、安心感が勝っていた。
(「おかしい」って、思ってくれる人なんだ)
スマートフォンの画面に、自動ロックがかかった。その直前に「ふざけるな、逃げ出せ」というメッセージが来たが、それを追うのは峰の視線が止めた。遙からの命令で、パスコードロックもかけていないため開くのも簡単なはずなのに。千尋は、峰の方に従った。
実際、彼の手が伸びてきて……千尋のスマートフォンを掴んだ。そして、自分が座っている席の机に置く。
「多分だけど、学校休んだ理由も母親だろ」
「……はい」
やっと、言えた。その瞬間、一気に溜め込んでいた涙がぼたぼたとこぼれ落ちてきた。