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第4話-「視」ていたのは彼だった

 遡ること、6年前ーー。



「ええ、ですから金森くんの成績であれば大学に進むのも何ら問題ないかと。もちろん本人の気持ち次第ではありますがね」


 峰は向かいに座る千尋と……その隣に座る千尋の母である遙をじっと見つめながら淡々と話していた。

 高校2年生になり初めての三者面談は、穏やかに進められていた。ただ、それが表面上のものであることは千尋はとっくに気付いていた。


「まあ、そうですか。さすが千尋ですね」


 遙は微笑みながら、峰にそう返す。しかし峰はただ頷いただけだった。


「成績も、まあ気になるのは数学2教科分くらいかな。ここさえどうにかなれば選択肢は一気に広がるかと」

「まあ、そうなんです? よかったわねぇ、千尋」


 千尋には、分かっていた。仮にも16年は彼女の息子をやっている。彼女の望む返答くらい、裏側から探ることは容易だった。


「僕、大学行く気ないです」


 千尋の言葉に、峰はふとボールペンを握る手に力を込めた。そして、遙は「あら」と口にする。


「そうなの? 千尋」

「……行く気、ないです」


 遙と千尋の問答を眺めていた峰は、一つだけ息を吐いた。そして、書類に何かを書き込んでいく。


「まあ、志望校を絞るのはまだ先だしゆっくり考えっるといいさ」

「いや、その、行く気なくって」

「そうは言っても後で気が変わることだってある。どちらにせよ行かないって決定も今できることじゃないから」


 千尋は、峰のことが苦手だった。

 そもそも教師に対していい印象を抱いたこと自体ないのだが、中でも峰はとくにそうだった。

 淡々としていて、誰とも深く接さない。それがありがたくもあり……自分のことを助けてくれない人なのだろうと、勝手に自分の中で分類していた。


「先生、そろそろ時間ですね」


 遙の言葉に、峰は「そうですね」と返す。


「では、また何かありましたらいつでもおっしゃってください」

「ええ、ありがとうございます」


 峰に目線で促され、教室を出る。入れ替わりに教室に入る生徒とその母に愛想よく会釈する遙と違い、千尋はひたすら俯いていた。そんな千尋を、遙はじっと見つめていた。

 二人並んで学校を出て、近所のコインパーキングに停めてあった軽自動車に乗り込む。遙が運転席でシートベルトを締め、千尋が助手席の扉を閉めた……その瞬間だった。


「っもっとはっきり言いなさいよ!」


 遙の左手が、千尋の後頭部を掴んだ。そして、助手席の窓に思い切り打ち付けられる。予測できていたおかげで、声を上げることはなかった。


「あんたが! はっきり! 言わないから! あのままじゃあのクソ野郎、あんたのこと大学に行かせようとするでしょうが!」

「っ、う、うっ」

「この愚図、馬鹿、愚図、愚図がぁ!」


 三度目打ち付けられたあたりから、鼻血がこぼれ出した。それでも遙は、手を止めない。むしろ執拗に、まるで千尋の顔を潰そうとしているかのように打ち付け続ける。

 やっと解放された時には、千尋の意識がほんの少しだけ飛びかけていた。遙は乱暴に千尋の頭をシートに叩きつけ、不機嫌そうにアクセルを踏む。

 ぼんやりとバックミラーを見ると、母が嫌った顔が血まみれで腫れているのが分かった。早くも目は閉じているかのようにまで膨らんだ瞼が隠していて、鼻から下は未だ止まっていない血で真っ赤に染まっている。


(……どうしたら、助かるんだろう)


 そんな心の呟きが、誰かに拾われることなんてなかった。




 帰宅してまた殴られた。理由は単純明快で、遙が扉を開いてから3秒以内に中に入らなかったからだ。彼女はとにかく、待たされることを嫌っていた。少しだけ固まっていたはずの鼻血が、また噴き出した。

 手で押さえ込みながら部屋に戻ろうとすると、「拭けよ!」と金切り声に似た怒鳴り声が聞こえてきた。なので、制服の学ランの袖で床にこぼれた鼻血を擦った。こんなことはもう慣れているし、学ランが真っ黒なおかげで血が目立たないのは本当によかったと思っている。

 自室で学ランを脱いでハンガーに掛けていると、遙の啜り泣く声が聞こえてきた。恐らく、もう酒を飲み始めているのだろう。そっと、耳を澄ませてみる。


「何で、何であいつだけ……あのブスが……っ」


 聞かない日はない、と言えるほどの頻度で吐き出される呪詛。もううんざりすることすらできなくなっている。もはや、彼女の呼吸のようなものだ。

 千尋の生には、遙の暴力が付き纏っていた。殴られたり蹴られたり、というのは毎日のことだ。一度近所の人間が児童相談所に相談してからは、見える位置にあざを作らせるような真似はなくなったが。

 それでも、衝動が激しい時はそれすら忘れるのか今日のように顔を殴られる。腕でも足でもなく、顔を狙ってくる。

 部屋に鏡は置かれていない。それは、遙いわく嫌がらせなのだという。それでも与えられたスマートフォンのインカメラを使えば、自身の顔は好きな時に確認できた。


(……ひどい顔だ)


 車内で見た時よりもひどくなっている気がする。このままでは、きっと数日はこのままだ。また言い訳を考えるよりは、学校を休む方が丸く治まるだろう。


(あの人も、こんな顔だったのかな)


 答えの一生分からない問いかけは、終わらない。

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