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第3話-逃げ出したのは僕だった

 走るしか、なかった。あの場にあのまま、いられるわけなんてなかった。

 マンションを出ようとしていたあの二人とは、きっと進行方向は同じだっただろう。だからこそ、追いつけないくらいに走った。追ってくるわけも、ないのに。


「はあ、はあっ、はあっ」


 やっと足が止まった頃には、峰のマンションからだいぶ離れたところにまで来ていた。暗い路地に入り込んだようで、人気がない。だからこそ気が緩んでしまったのか…胃から、濁流が押し寄せてきた。


「う、ううええ、うえっ」


 ぼたぼたと音を立てながら、嘔吐する。千尋はうずくまりながら、その場に半透明の液体を落とし続けた。昼食のサンドイッチだったものが混ざっているのか、胃液の臭いをさらに悪化させていた。

 ひとしきり吐き終えて落ち着くと、思考の定まらない頭を回す。立ち上がることは、まだできなかった。


(誰だよ、あれ)


 峰と居た男が身につけていたのが、あの日千尋の店で購入したブレスレットであることは間違いない。何度も自分が手入れして在庫整理していた商品だ、見間違えるわけがなかった。

 何より……このピアスと一緒に、峰が選んだもの。それだけで、一生忘れられない。


(先生、僕に気付いていたよな)


 あの場で、確かに目は合った。反応からして、峰はきっと千尋を認識していた。

 彼は、何を思ったのだろう。千尋に見られて、まずいと思ったのか。それとも……何とも思っていないのか。

 何とか立ち上がると、千尋はよろめきながら歩きだした。胃も頭も痛むが、この吐瀉物の臭いにまぎれているとどうにかなってしまいそうだった。


「どうして」


 その場に居るわけでもない。居たとしても、彼が答えることはきっとない。それでも、止まらない。


「どうしてあんたは、僕を裏切り続けるんだよっ……」


 漏れ出した言葉を拾う者は、誰もいない。



 一人暮らしにも慣れた。だからこそ、実家のような汚さとは無縁と言えるくらい部屋は一定の綺麗さを保っている。それもすべて、峰のおかげだった。

 それなのに、さっきの一件のせいでそれすらも無意味なように感じる。


「何で、何で」


 呪詛のような呟きは、止まらない。そして、高校時代の卒業アルバムをめくる手も。

 一人暮らしを始める際、小学校と中学校の卒業アルバムは荷物になると思い処分した。そう思えるくらいには、さしていい思い出が無かった。

 ただ、高校時代だけは。峰と過ごした、あの時間だけは。千尋が千尋として生きられるようになった、そのきっかけがあるあの時だけは。


「先生……っ!」


 卒業アルバムの中にいる六年前の峰は、今よりも確かに若く見える。あくまで比較しての話ではあるが、あの彼こそが……千尋にとって、あの時は確かに神様だった。


「先生、先生……っ」


 彼と離れてから、毎晩のように千尋は峰のことを呼び続けている。ずっと、ずっと……一日だって、欠かしていない。それだけ千尋は、峰を待っていた。それなのに、峰は。



 ーーそして今日も、回想が始まる。

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