「戻りましたー」
「おかえりなさーい」
休憩から戻った後のこのやり取りにも、入社して半年も経てばさすがに慣れてきた。最初の頃は挨拶ですらどもってしまい、同僚や先輩にも戸惑われたものだ。
金森千尋はタイムカードを入力すると、改めて先輩である森川のもとへ駆け寄った。
「すみません、時間ギリギリでした」
「ううん、大丈夫大丈夫。そういえば千尋くん、さっきお客様来てたよ」
「お客様? 僕指名で?」
千尋の職場は、カジュアルなシルバージュエリーのショップだ。最近できたばかりのショッピングモールに、新規テナントとして入ったばかりの店舗である。
先輩には接客由来の常連がついていることもあるが、新入社員の千尋には未だそこまで濃密な接客をしたことのある顧客の記憶は無かった。
「うん。今休憩中でーって伝えたら、じゃあ終わった頃に来ますって」
「すみません、ありがとうございます。どんな人でした?」
「男の人。背が高くてイケメンだったよ、私の彼氏くらいに。でも何も着けてなかったなぁ、プレゼント目的かもね」
さすが、職業的に見る場所が偏っている。しかし千尋にも、その気持ちが分かるようにはなってきていた。
「背が高くてイケメン、かぁ」
知り合いにいないことは……ない。ただ1人、それを聞いて思い出す相手はいる。
ただ、もう行く末も分からない。もう会うことはできない、そう思っている。
「あ、噂をすればだ」
森川はふと、店舗の入り口を目線で指した。それにつられて、千尋もそちらを見る。
瞬間、息が止まった。
「おーおー、派手な頭になっちゃって。何それ、銀色?」
相手は、一瞬だけ驚いた目をしてすぐに笑った。
覚えている、どころではない。ずっと欲していた、その笑顔。
「……峰先生」
不意に口から漏れた声は、震えていた。
「まさかお前が接客業だなんてなぁ、ちょっと感動したわ。しかもそんなピアスとか指輪じゃらじゃら着けて」
「……先生の、おかげだよ」
店内で商品を物色するようにしながら話す峰の隣にぴったり着くようにしながら、千尋はぼそぼそと返した。緊張と驚きのせいで、手汗が止まらない。必死に押さえ込むようにして、握り込む。
「でも、何で? 先生、確か異動になったんだよね」
「ああ、うん。そういやお前、この間西高まで来たんだって?」
「うん、先生に会いに行った」
峰の手は、変わらない。大きくて、無骨で。
「……約束、果たしたから」
千尋の言葉に、商品のブレスレットに触れる峰の手が一瞬止まった。しかしすぐに、ブレスレットを戻す。
「大学卒業したんだな」
「うん、ちゃんと、留年もしてない」
「そっか、よくやったな」
何も変わらない。生徒を褒める時は温かい声でというところも、必ず目を見てくれる、というところも。
千尋にとってずっと好きだった、その姿は。一切、変わっていない。
「だから僕、先生に会いに行ったんだよ。西沢高校まで。そしたら」
「まさかの俺がいなくなっていた、ってか」
冗談めかして峰は言うが、千尋はその顔を見ながら唇を噛み締める。
「……酷すぎるって思った、自分から『卒業したら会いに来い』なんて言っておいて」
「いやそればかりはごめん、だから俺が来たんだよ」
「え?」
今度は、ピアスを物色しだした。派手な銀細工がもの珍しいのか、まるで好奇心王政な子どものような目をしている。
「西高の事務員さんが連絡くれてさ、『卒業生の子が峰先生に会いに来てましたよ』って」
「あ……そ、そうなんだ」
「で、お前だろうなってすぐに勘づいた。でも誰もお前の連絡先知らないからさ、どうしようかと思って」
「じゃあ何で、ここが分かったの?」
「内緒」
そう言ってはぐらかすところも、変わらない。そのせいで、千尋自身も変われなくなっているというのに。
「ここ入って、どれくらいなんだ」
「え……新卒だから、入社自体は半年前。この店舗に来たのは先々月」
「そっか」
峰の手が、一組のピアスを手に取った。準新作の中でも人気な、シンプルな菱形モチーフのものだ。
そのピアスと一本のブレスレットを手に取り、千尋に手渡した。
「これ二つ、買うわ。別々で包装して」
「い、いいの? 付き合いとかなら別に」
「付き合いならわざわざちゃんと選んだりしないだろ、ほら」
そう言って押し付けられては、何も言い返せない。なので千尋自身も慌てて、レジへと向かった。
レジに金額を入力しながら、改めてピアスとブレスレットを見つめる。どちらも取り扱いの商品の中では比較的シンプルで、使いやすいものだ。こういうのが彼の好みなのか、とぼんやり思いながら……どちらも洗浄し、包装を終えた。
ショッパーに、ピアスとブレスレット両方を詰める。まるで彼への贈り物の気分になって、胸の奥が熱くなる。
(まあ、先生自身が買ったんだけど)
内心そう苦笑しながらも、それでも……たまらなく、幸せだった。
峰は未だ店内の商品を眺めながら待っていて、駆け寄ってくる千尋に気付くとくるりと振り返った。改めて感じるが、彼は本当に背が高い。比較的背の低い千尋とは、頭一つ分近く差がある。
「あの、これ。出来ました」
「サンキュ」
そう言いながら峰は、早速ショッパーを閉じていたテープを剥がした。それに内心驚いて何も言えずにいると、峰はピアスを取り出して差し出してきた。
「ほら、やる」
「え」
「就職祝い。お前ピアスするんだろ。それ、何個開けてんの」
「えっえっ」
反射で、自身の耳に着いているピアス達に触れる。高校を卒業して以来開け続けてきたピアスは、いつしか片方につき五つずつにまで増えていた。
恐る恐る、ピアスを受け取る。すると峰は満足そうに笑った。
「じゃ、俺そろそろ帰るわ。この後用事あってさ」
「あ、あの先生!」
「ん?」
すでに歩き出そうとしていた峰に、声を上げる。振り返った峰に、千尋は「あの、」とどもりながら口を開いた。
「ごめんなさい、忘れてた。一応顧客名簿つけてて、うち。だからそれだけ書いてほしい」
「へえ、しっかりしてんだな」
急いで顧客名簿のための用紙を持っていき、峰にボールペンとともに手渡した。すると彼は、さらさらと内容を書き記していく。
名前、生年月日、連絡先、住所……すべて書いてから、千尋に返してきた。
「悪い、本当に時間やばいから行くわ」
「うん、ごめんね。ありがとうっ」
そう伝える頃には、峰はもう早歩きで店を後にしていた。
その背中を見つめながら、千尋は泣きそうな気持ちで用紙を抱き締めた。