数日後。いよいよ当日となり、ペトロはユダ運転の車に乗って初仕事へと向かった。
「て言うか。何でユダがマネージャーなの。お前社長だよな?」
通常通りヨハネがマネージャーとして付き添う予定だったのだが、今回はやらせてほしいとユダは申し出たのだ。ヨハネは自分がやると言ったのだが、ユダが食い下がらなかったのでヨハネは泣く泣く役目を委ねた。
「今日はペトロくんの初仕事だしね。先方との契約云々もよくわからないだろうから、私が間に入ろうかと思って」
「じゃなくて。ヨハネが最初は付き添うって聞いてたんだけど?」
「今回は特例ってことで」
「職権濫用?」
「まぁ、細かいことは気にしないで」
「気になるから!」
ペトロの心に若干のモヤモヤを残しつつ、依頼のあった企業のオフィスが入るビルに到着した。エントランスでは、丸メガネを掛けたボブヘアの女性が立っていた。
「お待ちしていました。宣伝担当のフィッシャーと申します」
「初めまして。ノイベルトです」
ユダはフィッシャーと握手して挨拶し、「彼がペトロです」とペトロを紹介した。
「ペトロ・ブリュールです。初めまして」
「初めまして」
ペトロもフィッシャーと握手をして挨拶する。ペトロを見る彼女は目を輝かせて、とても何かをしゃべりたそうにしている。
二人はエレベーターに乗りオフィスへ案内された。エレベーターが到着し扉が開くと、すぐ目の前に見たことのある有名企業のロゴが飛び込んで来た。
「この会社って、よく聞くメーカーの……」
「そう。私たちも時々飲んでるビールの製造と販売をしている企業だよ」
二人は応接室に通され、もう一人の担当者の男性を交えて話が始められた。
「今回はオファーを引き受けて下さり、ありがとうございます」
「いいえ。あんな熱烈なファンレターのようなメールを頂いては、お断りするのも申し訳ないですし」
依頼メールをファンレターと言われたフィッシャーは、「お恥ずかしいです」と気不味そうにする。
「先日、戦われている姿を初めてちゃんと見て、その時のペトロさんの表情にズキュン! と言うか、バスンッ! と胸にきて。その興奮が収まらなくてその勢いのまま……。送信したあとハッと我に返って、これはドン引きされて断られると思ってました」
「驚きはしましたが、その気持ちは私もわかります。うちのペトロに初めて声を掛けて下さって、ありがとうございます」
「それでですね。オファー快諾の返信も興奮してすっかり忘れてしまって今更なんですが、今回の依頼内容について説明させて下さい」
(この人どんだけ我を忘れるんだ……)
若干フィッシャーの忘れっぷりが心配になるペトロだが、タブレットの企画書を見せられながら今回の仕事内容を聞いた。
「お気づきの通り、弊社はビールの製造販売を主とする事業を長年続けて参りました。そして今年、周年を迎えた区切りの年で、これを機に弊社の新たな顔を作りたいと考え、違う飲料の販売に着手する運びとなりました。それが、こちらの炭酸水です」
両者が挟むデスクには、ラベリングがされたペットボトルが置かれている。新商品の炭酸水のサンプルだ。
「この国では炭酸水も好まれてよく飲まれています。なのでこの際、弊社もその中に飛び込んでやろうということになりまして。様々なメーカーの炭酸水を飲み比べて開発し、この度、商品として販売することになりました」
それを聞いたユダは、「ですが」と先方に遠慮なく物申す。
「炭酸水を販売しているメーカーは結構ありますよね。そこに新規参入するそのチャレンジ精神は素晴らしいと思いますが、商品の目新しさや目立つ広告を打たなければ埋もれてしまうと考えますが」
「その通りです。私たちもどうやって新商品を消費者にアピールするか、散々悩みました。そこで出会ったのが、ペトロさんなんです」
「オレ、ですか?」
フィッシャーから突然熱い視線が送られ、ペトロはちょっとタジタジになる。
「ペトロさんを一目見た時、『この人だ!』と私の直感が働いたんです。理由なんてありません。この人なら消費者の目を奪えると直感で確信したんです」
(直感で確信……。何を言ってるんだろう、この人……)
ペトロはただ困惑したが、ユダは冷静に話を続ける。
「フィッシャーさんのおっしゃることはわかります。ですが、うちの所属ではありますがこれが初仕事なので、率直に言って確実に商品の購買に繋がる約束はできません。実を言うと私も、彼には隠れた実力があるんじゃないかと買っていますが、可能性は良くも悪くも未知数です」
「そこはご心配いりません。結果による不当な契約解除などは致しません。大コケしたら、一人で突っ走ったわたしに全責任がのしかかるだけですから。それに、今日お会いしてわかりました。ペトロさんの起用は直感ですが、確信は100%……いえ。200%してますから!」
目をキラキラ輝かせるフィッシャーは、不確定な確信に自信を持っていた。
(待て。未経験者にちょっと期待し過ぎじゃないか!?)
「そうなんですね。本当は私も思っていたんですよ。購買に繋がる約束はできないと言いましたが、彼の隠れた実力を信じています!」
そしてユダも、不確定な確信を抱いていた。
(根拠がないけど本当にいいのか、それで!?)
情熱の勢いで突っ走ろうとする似たもの同士のユダとフィッシャーに、ペトロは心の中で突っ込む。遠慮をしていなければ「冷静になれ!」と二人に言っているところだ。
「そんな感じなんですが。大丈夫ですか、ペトロさん」
(そんな感じなんですが、って……)
起用理由を始め全てに納得はできていないが、その熱意には嘘はないようだし、ビームみたいな熱視線が痛くてなんかもう後に引けない空気だった。
(まぁ。オレもやるって断言したしな……)
「大丈夫です。力になれるかわかりませんが、宜しくお願いします」
ペトロは撮影用の衣装に着替えるために、別室へ移動した。
「なんか、変わった起用理由だな。よくあるのか?」
「ああいうのは、あんまりないかな。気乗りしなくなった?」
「いや。ちょっと戸惑ったけど、一度やるって決めた以上はちゃんとやるよ。それはいいんだけどさ……。この衣装、お腹出るんだけど」
用意されていた衣装は、ヘソ出しのショートパーカーとカーゴパンツだった。
ペトロが着替え終わるまで身体ごと逸していたユダだったが、彼のおへそに目がいくと、掌を向けて自分の視界から隠した。
「何してるの?」
「ちょっと落ち着こうと思って。じゃあ、行こうか」
企業が建物内に所有する撮影スタジオに入り、ヘアメイクさんに髪などを整えてもらう。
「肌キレイですね。目もキレイだし、女の子みたい〜」とヘアメイクさんはテンションアゲアゲでペトロを褒めるが、緊張してそれどころじゃないペトロはガチガチだ。
カメラの前に立つと、緊張は一層増した。
「こういう撮影は初めてなんだよね。最初のうちは緊張するかもだけど、だんだん慣れるから」
「はい……」
「それじゃあまずは、そのままの感じで撮ってみましょうか。写真はバストアップなので、商品は顔のあたりで持つようにして下さい」
商品の炭酸水を持たされたペトロは、とりあえず言われた通りに顔の近くに持ち、最初のシャッターが切られた。次に「もう少し上に」と指示され、今度は顔の横で持ってみた。
しかし、何枚か撮るが表情が固く、笑顔もぎこちなくなってしまう。撮影初心者にありがちなことだが、フィッシャーとカメラマンは悩んだ。
「少し休憩しましょうか」
フィッシャーの配慮で少し休憩を取ることになった。
緊張からの一時的な開放に、背中を丸めて大きく息を吐くペトロに、ユダは水を差し出した。
「緊張、解れない?」
「うん」
「そうだよね」
「前に撮ってもらった時、仕事じゃなくても結構緊張したんだ。なのに本番で緊張しないのは無理だよ。仕事、軽く受け過ぎたかなぁ……」
初仕事でナーバスになるペトロは、珍しく不安な表情で後悔を口にした。使徒のことにはあんなに前向きな意志を見せていたのに、意外な姿を初めて見せた。
「ペトロくん。私の目を見て」
ユダはペトロの緊張を解そうと思い、肩に手を置いた。
ペトロは素直にユダと視線を合わせる。メガネ越しに真っ直ぐに見つめてくるライトブラウンの双眸の中に、ペトロの姿が映り込んでいた。
「きみはまだ、自分に自信を持てていないだけだ。だけど、きみの魅力は私が知ってる。ペトロくんの中に、もう一人の違うきみが隠れているのがわかる」
「もう一人の、オレ?」
「きみもまだ知らない自分だよ。その未知の顔を、私たちに見せて。きみが被っている皮を一枚脱ぐだけで変われる。もっと魅力的な人になれるよ。だから大丈夫」
「……本当にできるかな」
「できるよ。私を信じて」
その眼差しは、いつもの穏やかなものではなくペトロを信じている眼差しで、勇気をくれているようだった。
(何でだろう……。不思議なくらい、その言葉を信じられる気がする)
「……わかった。ユダの言葉を信じる」
休憩が終わり、ユダに背中を押されたペトロは再びカメラの前に立った。
「それじゃあ。一度笑ってみましょうか」
(一枚皮を脱ぐ……)
ペトロは一度目を閉じ、深くゆっくり呼吸する。そして、カメラに向かって微笑んだ。
その瞬間、スタジオ内が少しざわめいた。
「やっぱり」
(ペトロくんは、こっちの素質もあったんだ)
ペトロを見かけた時からその存在の価値に気付いていたユダだったが、モデルとしての才能も隠し持っていたのだと、彼の可能性に確証を得た。
「いいですね! じゃあ次は、クールめにお願いします」
リクエストを受けたペトロは、微笑みからクールフェイスに表情を変えた。
さっきとは別人のような変貌ぶりにその場にいるスタッフたちは一様に驚き、ユダも初めて目にするペトロの魅力に吸い込まれ、釘付けになる。
その後も、決め顔やナチュラルな表情を求められる度に、ペトロは雰囲気を変化させる。見ている周りは、感嘆の声を漏らさずにはいられなかった。
「すごい……」
(今日が初めての撮影だっていうのに、こんなに臨機応変にリクエストに応えられるなんて。一枚皮を脱いだだけで、こんなに変わるのか)
「さすがに、予想の範疇を超えてるよ」
(なんて人なんだ。きみは)
写真のあとは、アプリやネットで流すショート動画を撮った。セリフはなく、実際に商品を飲んでカメラに視線を送るだけだが、飾っていないのにそれだけでも妙に視線を集めさせた。
一日かけた撮影は夕方に終わった。終わる頃には立ち会ったスタッフ全員がペトロの魅力に引き込まれ、興奮したフィッシャーも初めてとは思えないペトロの仕事ぶりを大絶賛し、起用してよかったとフライングで喜んだ。
写真もどれを使うかすぐには決められないので会議で検討するらしく、「わたしとしてはどのパターンも使いたいんですけど!」と悶える彼女に、「使えるのなら、全パターン使って下さい」とユダは言っておいた。
こうしてペトロの初の撮影は無事に終了し、二人は帰路に着いた。辺りは夜の帳が下りていて、街にも星が落ちていた。
「ヤバイ。疲れがドッときた」
後部座席のペトロは、座席から滑り落ちそうなくらいダラッと力を抜いていた。
「緊張しっぱなしだったもんね」
「今日撮ったやつが広告になって、駅とかに掲示されるんだよな。全然想像できないや。それに、本当にオレなんかで宣伝効果出るのかな。ド新人だよ?」
「言ったでしょ。確証があるって」
「根拠がない確証だけどな」
ペトロはそこはまだ信用ならなかった。
「だけど私は、ペトロくんなら宣伝効果抜群だと心の底から確信してるよ」
「本当に?」
「本当だよ。だって、きみには魅力があるから」
そんなことを不意に言われてこそばゆいペトロは、少し頬を赤くした。
「魅力って……。具体的にどんな?」
「笑うと花が咲いたようなかわいさがあるし、男っぽい面を全面に出すと色っぽさが出るし、自然な仕草も飾ってなくて素敵だった」
「うっ……」
「全てのきみが、素敵だったよ」
「……っ。やめろよ。恥ずかしい」
褒めそやされている気分になって、恥ずかしさで隠れたい衝動を我慢したかったペトロは、窓外に視線を移して気を逸らそうとした。
「そんなに恥ずかしがることないのに。褒めてるんだよ?」
「恥ずかしいものは恥ずかしいのっ! ……あ。そう言えばユダ。オレのあの写真、無断で待ち受けにしてるだろ」
「あれ。バレちゃった」
ユダはほんのりおどけて言った。バレたことに後ろめたさは感じていないようだ。
「あれも恥ずかしいからオレの許可なく使うな。必ず変えろよ。絶対!」
「わかったよ。あとで絶対変える」
「もう……」
ペトロは窓枠に肘を突く。本当は、今すぐ変えてもらって恥ずかしさから開放されたい。
「なんでオレの写真なんか使うんだよ」
「仕方がないよ。あの一枚に、とてつもなく惹かれてしまったんだから」
「惹かれたって……。確かによく性別間違われるけど、同性だぞ?」
「性別は関係ないよ。私から見て、ペトロくんはとても魅力的に映ってる。どんなに美しい女性よりも、女性のようにキレイに見せている同性よりも。私は、そのままのきみに惹かれている。どうしようもなく」
女性なら一発で落ちそうな落ち着いたトーンの言葉の連発に、ペトロは不覚にもドキッとしてしまうが、その反応を誤魔化そうと微苦笑した。
「何だよそれ。冗談言うなって」
「冗談じゃないよ」
「え?」
「紛れもない本心だよ」
「……」
その声音は本当に冗談なんかではなさそうに聞こえ、窓外を見ていたペトロは思わずバックミラーに映るユダの顔を見た。
車は黄色信号で減速し、停車した。
「……ねえ。ペトロくん……。もしも、きみのことが好きかもしれないって言ったら、どうする?」
「えっ……」
バックミラーに映るユダの視線が動き、ペトロの目と交わった。
いつもの優しい眼差しや、さっき背中を押してくれた時のものとは違う。熱が込められて、胸がジリッと焼かれるような視線が。
車が動き出すまで時が止まったかのように、ペトロはその視線から目を離すことができなかった。