ペトロが使徒としての役目を本当の意味でやり遂げた翌日。業務中のユダは、痛めた背中を労りながらデスクワークに勤しんでいた。
「イタタ……」
「大丈夫ですか?」
「うん。だけど、今後はソファーで寝るのはやめておくよ」
「それが懸命です。と言うか、どうしてペトロをあいつのベッドに寝かせなかったんですか」
「ほら。おんぶしてたからドアを開けられなかったんだよ」
「助けを呼んでくれればよかったのに」
ヨハネはちょっと不満げにボソッと口にする。
「ん? 何か言った?」
「何でもないです」
ヨハネは尖らせかけた口を引っ込めてパソコンに向かった。
すると仕事依頼のメールが届き、ざっと内容に目を通した。
「ユダ。新しい仕事のオファーです。そっちに転送します」
ヨハネは自分のパソコンに届いたメールを、ユダのパソコンに転送する。その仕事依頼のメールをしっかりと読み理解したユダは、嬉しそうに口元を緩ませた。
「来たね」
今日も通常通りにアルバイトに行っているペトロは、昼食をテイクアウトしてヴァインヴェルクス公園で食べていた。
芝生に座り、目の前の池に咲き始めた睡蓮をぼんやりと眺め、ふと自分の手に視線を落とした。
(昨日、本当にやったのかな)
「一晩経ったけど、全然実感が湧かない……」
(でも。みんなが褒めてくれた。ヨハネたちじゃなくて、戦いを見守っていたみんなから。あの女の人の旦那さんからも)
「……できたんだよな?」
(あの人を、救えたんだよな?)
「でもやっぱ、実感湧かない……。ちょっと迷惑も掛けちゃったし」
あのあと周囲に恥ずかしい姿を晒したことを思い出したペトロは、目撃した全員の記憶を書き換えたくなった。
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戦闘と人々からの感謝の雨あられが終わった直後、ペトロは途端に脱力して一人では歩けなくなり、ユダにおんぶされて帰宅した。帰りは徒歩だったのですれ違う人々にもれなく注目され、一人で歩くと言っても下ろしてもらえなかった。
部屋に戻って来た時には眠気にも襲われていて、ユダの背中から彼のベッドに下ろされる前には自力で歩くことはすでに諦めていた。
その頃には入相で、窓から見える中庭の木々や建物の壁に、西日が定規で引いたような斜めの影を作っていた。
「ごめん。ありがと」
「緊張と不安とやる気でエンジンフルスロットルして、一気にエネルギーを消費した感じかな」
「なんか、不甲斐ない……」
「しょうがないよ。
ベッドサイドに腰掛けるユダは、微笑して頑張ったペトロを称えた。
「よくわからないけど、必死だったんだ。何となく、できるような気がしたから」
「勢いも大事だけど、無理はしない方がよかったね。初めてだから、相互干渉の負荷もあっただろうし」
「相互干渉……?」
「私たちと憑依された人は似た者同士だから、波長が合うんだと思う。だから深層潜入もできるんだ」
「波長……?」
眠気でぽかんとしながら聞き返すと、ユダは「電波みたいな。ビビビッて」とわかりやすく教えてくれた。
このだるさもそのせいか。このベッドが心地よく感じるのも、だるさと眠気のせいなんだろう。
ぼんやりとそう思ったペトロは、次第に現実と夢の狭間が曖昧になってきて、今なら普通に話せる気がした。
「ユダ……。オレ、使徒の本質的な部分を勘違いしてたかも」
「勘違い?」
「人の気持ちを知るって、使徒ならもっと簡単にできると思ってた。だけど、特別な力があっても、その人が救われたい本当の気持ちまではわからない。だからオレは最初、あの人の気持ちがわからなかった。何を罪深く思って苦しんでるのか、理解できなかった。だけど、心の声を聞いてるうちに、一つだけすごく耳に入って来る言葉があったんだ。その言葉に気付けたから、オレはあの人を救えた……。あの時わかったんだ。使徒は、その人の苦しみの全てを受け止める訳じゃない。全体を大雑把に受け止めたって、それは本当の救いじゃない。その程度なら誰にだってできる。使徒がやることは、その人が一番掬い取ってほしい言葉を拾ってあげること。だから深層に潜って、その人の全ての言葉を聞くんだ。そしてその行動は、自分の中のトラウマと向き合うことにも繋がっていく……」
ユダは慈悲深い面持ちで、ペトロの話を聞いていた。
「使徒は、人々を罪悪感から解放するために戦ってるんだな。オレは、自分のためになるならと思って使徒になった。でも、その利己的な考え方は間違ってた。自分を優先してたら、きっと誰も救えない。強くなれない。オレたちは、自分にも似た感情があるから深く寄り添える。その人が掬い取ってほしい言葉もわかる。それが、使徒にしかできない救い方なんだ」
「わかってくれて嬉しいよ……。そう。自分自身のためになるのは、救わなければならない人を救ってからのことなんだ。
「初めてやってみて、その難しさとすごさがわかった。トラウマを抱える他人のリアルな心の痛みも。自分と違う境遇だったから、余計に救えるか不安になって怖くなった。ちょっと諦めそうになった。だけど……」
ペトロは、自分に感謝する女性の家族の表情を思い出す。
「諦めなくてよかった」
やり遂げた実感はないが、ただ一つ、その気持ちだけはペトロの心に強く残った。
「救わなければならない人と向き合う時は一対一で、一人の人間として向き合わなきゃならない。それは時に不安を煽り、尻込みさせる。ヨハネくんたちも最初は、ペトロくんのように言ってたよ。でも、やるべきことがわかれば、あとは不安はないよ」
ユダの羽毛のような声音がペトロを安心させ、眠りに誘う。
「ヨハネたちが応援してくれたおかげもあるよ。もしもオレ一人の戦いだったら、絶対に無理だった。だからこれからは、みんなとの信頼関係を築きたい。強くなりたいけど、まだ半人前だから」
「きみはもう立派な使徒だよ。みんなにそのことを直接言ってあげると喜ぶよ」
「直接は、恥ずかしいな……。だけど今日、仲間になれてよかったって、初めて思えた……。それは、いつか、言いたい、かな……」
重たくなった目蓋がペトロの碧い双眸を塞ぎ、寝息が立てられる。無防備にも、ユダのベッドで眠ってしまった。
「今日は頑張ったね。お疲れさま」
ユダは微笑を湛え、自分のベッドで無防備に眠りに就いたペトロの金色の柔らかな髪に触れ、撫でた。
その行為が
髪に触れ、寝顔を見ていたユダは、眠るペトロに顔を近付けようとした……。
けれど、唇が頬に触れる手前でやめた。
その代わり、自分の手の甲に唇を当て、その手の甲でペトロの頬に触れた。
数時間後。午前0時を過ぎた頃にペトロは目を覚ました。
(あれ……。いつの間に寝てた……?)
「喉乾いた……」
喉の渇きを感じてベッドを下りた。
キッチンへ行こうとすると、リビングのソファーで、肘掛けから足をはみ出させて毛布を掛けて寝ているユダを発見した。
(そっか。オレが占領しちゃったから……)
せっかく寝ているところを起こすのも申し訳ないと思い、敢えて声を掛けなかった。が。
「痛っ!」
歩き出した時にローテーブルの天板に足をぶつけてしまい、その振動で乗っていたユダのスマホが床に落ち、衝撃で画面が明るくなった。
その待ち受け画面を偶然見てしまったペトロは、ドキリとした。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
思い返して少し顔を赤くしながらぼんやりしていると、後ろから頭を触られている感触がした。
「へっ!?」
びっくりして振り向くと、大型犬がペトロの髪に鼻先を近付けていた。飼い主の女性は「ごめんなさい」と一言謝罪して犬のリードを引っ張って行った。
ユダがスマホの待ち受け画面にしていたのは、この前カメラマンにお試しで撮ってもらったあの写真だった。
「恥ずかしいって言ったのに……」
(なんであれを待ち受けにしてるんだよ)
写真を見せた時にユダが「素敵だ」「キレイだ」と言っていたのを思い出し、ペトロはまたこそばゆくなる。
「褒めてはくれたけど、待ち受けにするほどかよ」
(待ち受けにしたのは謎だけど……。まぁ、ユダも悪いやつじゃないよな。優しいし、いつも微笑み掛けてくれて、オレの心を解そうとしてくれてる気がする。一緒にいると、やけに安心できるし……)
最初は、騙された気がして信用していいのかと疑っていたペトロだが、リーダーだけあってユダは一番頼りにできるかもと認識を変えていた。
(おかげでちょっと自信付いたし、これからも使徒として頑張ろう。強くいるためにも)
「そういえば。いつの間に怪我したんだろ」
ペトロが右腕の袖を捲くった。
前腕の裏側には、いくつか赤い線が浮いていた。
その晩。一同で食卓を囲んでいる時に、ユダからある報告が発表された。
「実は今日は、いいお知らせがあるんだ」
「いいお知らせって何?」
「もしかして。俺たちとうとう州から表彰されるのか!?」
「そうじゃないよ。でも実は一度、感謝状を贈りたいって連絡が来たことがあったんだけど……」
「マジか!」
「断ったよ」
「何でだよ!」
目を輝かせたヤコブだったが、一秒でガッカリさせられる。
「だって、その頃は使徒を始めたばかりだったし。それに私たちは、褒められるために使徒をやってる訳じゃないからね」
「ごもっともだな。ヒーロー扱いされてるからって調子に乗るなよ、ヤコブ」
ヨハネは悪気もなく言ったが、ヤコブはちょっと腹が立ってヨハネのビールを奪って一気飲みした。
「それでユダ。どんないいお知らせなの?」
「なんと! ペトロくんに初めて仕事のオファーが来ました!」
ユダからの発表にシモンとヤコブは「おおっ!」と感嘆の声を上げた。
「おめでとうペトロ!」
「と言うか。オレもサプライズなんだけど」
「何だ。まだ本人にも言ってなかったのかよ」
「みんなの前で発表したくて」
ペトロ本人よりも、なぜかユダが嬉しそうだ。
「どんな仕事なの?」
「炭酸水の広告だよ。昨日の戦闘も少し見ていたらしくて、キリッとしたかっこよさが痺れたらしいよ」
「来たメールを読んでもらえるとわかるけど、熱量が半端なかったですよね」
「十行くらいの長文だったんもね。それだけ熱望してくれてるのは、社長としてとても嬉しいよ」
「で。どうする、ペトロ。引き受けるか?」
「きみが決めていいよ」
ペトロへ来た仕事なので、社長のユダと副社長のヨハネは受けるかどうかの判断を委ねた。
ペトロはその場で少し考え、答えを出す。
「やりたい。引き受けていいよ」
「わかった。じゃあ、明日の朝イチで先方に連絡しておくよ」
「よぉし! せっかくだから乾杯するか!」
「そうだね。ワインでも開けようか。セレクトはヨハネくんに任せるよ」
「しょうがないですね。でも、あんまり飲み過ぎないで下さいよ?」
ペトロ初仕事オファーの祝杯を上げ、ワインボトルが二本開けられた。またヤコブが先輩風を吹かせてマウントまで取り、ユダも上機嫌にペトロとスキンシップを取ったりと、また賑やかな一夜となった。