その晩。ペトロの歓迎会も兼ねて食卓が囲まれ、ライ麦パンとハム・ソーセージやモッツァレラチーズのサラダをあてに乾杯した。ヨハネは賭けの景品のビールを開け、未成年のシモンだけはグレープフルーツジュースだ。
ちなみに食事当番があり、今日はヨハネが準備した。
「ねえねえ、ペトロ。
「どうだったって訊かれても、始終訳わかんなかった。行きはジェットコースターだったし」
「ジェットコースターな! わかるわー!」
「でも驚いたことに、ペトロくん防御したんだよ」
「そうなの? すごい! 即戦力になりそうだね、ヤコブ」
「俺だって防御くらいすぐにできたし。そのくらいで鼻を高くしてもらっちゃ困るけどな」
入ったアルコールが顔に出始めたヤコブは、新人のペトロと張り合い始めた。
「してないし。咄嗟にできただけで、あとはユダに守ってもらってただけだし」
「まぁでも。シモンの言う通り、早く慣れてもらった方が助かるけどな。ユダとヨハネは事務所の仕事があるし、シモンも学校あるし、俺もバイトとモデル業やってるからさ、人手があるようでないんだよ」
「モデル業って言ったって、今はバイトのシフト入ってる方が多いだろ」
「だからお前は余計なこと言わなくていいんだよ、ヨハネ」
「ヤコブ。ムダに先輩風吹かしたいのか張り合いたいのか知らないけど、お前のせいでペトロが辞めたらどうするんだよ」
「新人イジメはダメだよヤコブ。コンプラに引っ掛かっちゃうから」
ヨハネだけでなく、最年少のシモンにまで意見されるヤコブ。
「ヤコブくんはヤコブくんなりに、ペトロくんを気に掛けてるんだよね。でもコンプラに抵触すると、きみの仕事を制御することになるからやめておこうか」
「それ遠回しに脅迫してるのか、ユダ。社長だからって権力に物言わせる気か?」
「うちの事務所は多少ゆるいけど、コンプラに関しては目を光らせてるからね」
ユダは目の代わりにメガネを光らせた。
「ていうか。ヤコブ、酔ってきた?」
「悪絡みしそうだな。シモン。ヤコブのワインを奪っとけ」
ヨハネに言われたシモンは、ヤコブの手からいとも簡単にワイングラスを奪った。
「おいシモン! お前、ヨハネの言うこと聞くなよ!」
「ヤコブ飲み過ぎ。今日はペトロの歓迎会なのに、ヤコブが一番飲んでどうするの」
「まだ飲んでるだろーが!」
奪われたワイングラスを取り戻そうとヤコブは手を伸ばしたが、シモンはグラスを持ったまま逃げ出し、二人はテーブルの周りで追いかけっこを始めた。
「走り回るな!」
ヨハネが注意しても止まらなかったが、シモンを捕まえられないヤコブはテーブルの上のワインボトルをロックオンし、ラッパ飲みし始めた。
「おいヤコブ! 独り占めしたいからってラッパ飲みはやめろ!」
「俺を止められるやつは誰もいなーい!」
「やめなかったらアル中になっちゃうよ、ヤコブ!」
目の前で三人が騒がしくじゃれ合っているのを、ペトロは二〜三歩引いて眺めた。
「いつもこんななのか?」
「大体ね。今日はちょっとヤコブくんが飲み過ぎてるけど、きみのことを歓迎してない訳じゃないから」
「だいぶ賑やかだな」
「苦手?」
「ううん。こういうのかなり久し振りだから、何か懐かしいというか……」
グラスを傾けるペトロの表情は、ユダから見ると戸惑っているように感じた。けれど、色白の肌がほのかに染まるくらいにはビールが進んでいた。
賑やかな夕食が終わり、部屋に戻ってシャワーを浴びたペトロはドスンッとソファーに腰を下ろした。
「なんか怒涛だったな……」
(今日引っ越して来たばかりのはずなのに、一気に一週間ぶんの時間を過ごした気分だ)
「なんかわかんないけど、疲れた……」
どっと押し寄せて来た疲労感に負けて、ソファーに寝転んだ。振り返ってみても、あまりにも怒涛過ぎて夢でも見ていたんじゃないかと思いたくなる。
「今日はお疲れさま」
「!」
不意にユダに話し掛けられて、気を抜いていたペトロは反射的に起き上がった。
(そうだ。同室だったんだ)
「コーヒー淹れたけど、飲む?」
前髪を下ろしてラフな格好に着替えメガネも外していたユダが一瞬誰かわからなかったペトロは、呆けたまま「うん」と頷いた。
ドリップされカップに淹れられたコーヒーが、香りを連れてやって来た。淹れたてほやほやで温かく、湯気に乗った甘さと酸味と豆の香りが鼻腔を通り抜ける。
「ミルクと砂糖、入れてよかった?」
「ありがとう。でも次はミルクだけでいい」
「了解」
ユダはデスクの椅子を持って来て座った。
「今日一日過ごしてみてどうだった? 慣れそう?」
「こういう初対面の人との共同生活は初めてだけど、ヨハネもヤコブもシモンも悪いやつじゃなさそうだから、安心した」
「さっきはちょっと騒がしかったけど、みんな仲間を思い遣れるいい子たちだから。同世代だし、すぐに仲良くなれると思うよ」
「でも。戦いにも、付いていけるようになるのかな」
使徒の役目を目の当たりにし圧倒されたペトロは、やる気が少し負けそうだった。
「不安になっちゃった?」
「ちょっとだけ。ユダが一人で戦ってるのを後ろから見てて、なんか、ひたすらすごいなって、迫力に圧された」
「4DXで映画を観るよりも圧倒的だからね」
「でも。やるからには頑張る。弱音を吐きたくないし、逃げ出したりしない」
「頼もしいね。私もみんなも、きみが来てくれたから心強いよ」
「約一名ちょっと感じ悪かったけど」
とヤコブのことを指すペトロに、ユダはお酒の席だったから許してあげてと彼を擁護した。
いったん二人の口が閉じられ、夜の静かな空気が包み込んだ。何かを気に掛けるような面持ちのペトロは、少しばかりの憂慮を声に乗せて訊いた。
「……あのさ。気になったことがあるんだけど」
「なに?」
「戦う時、今日みたいに憑依された人のケアもするんだろ。あれって、毎回やってるの?」
「毎回だよ」
「トラウマを和らげて助けるのは理解できるんだけどさ。オレたちもトラウマを抱えてるのに、人のトラウマを覗くのは辛くないのかなって思うんだけど」
「そうだね……」
ユダはカップをローテーブルに置いた。黒い表面がゆらゆらと波立つ。
「辛くない訳じゃないよ。時には自分のトラウマと似ている人と向き合うことになるから、自身のトラウマを想起しやすい。だから時には、戦闘後に不調を訴えることもある。でもヨハネくんたちは、そのリスクをリスクとも思ってないんだ。私たちが戦っているのは、自分自身のためでもあるからね」
「自分自身のため?」
「いつかはちゃんと向き合わなければならないことが、きみたちの深層にもある。それと目を逸らさずに戦うことで、私たちは強くなれる。そしてそのぶん、多くの人を救えるようになる」
トラウマを抱える人を救い、自身のトラウマも次第に克服して強くなり、そしてその力でさらに人を救う。そのループが悪魔の根絶に繋がり、人々の安寧が守られることになる。
「ペトロくんもそのうち、憑依された人の深層に
ユダはペトロを気遣って尋ねた。
ペトロは、人の深層に入るということを少し想像してみるが、それがどんな感覚で潜った先がどんな世界なのかは全く想像できない。
「わからない。でも。自分のトラウマとか知らない人のトラウマとか関係なく、覚悟を決めておいた方がいいのはわかる」
「いい心構えだね。確かに覚悟も必要だけど、忘れないでほしいのが、私たちはただ人々を救うだけじゃないということ。その時が来たら、自分よりも、救う人の気持ちに寄り添ってあげてほしい」
大切なことはひとつじゃないと言うように、ユダは柔和な面持ちと声音で言った。その雰囲気からは、心の底には余計なものは何も落ちていないような、波風のない人生を送って来たようにペトロには感じた。
「ユダは、みんながどんなトラウマを抱えてるのか知ってるのか?」
「よくは知らないかな。仲間と言っても、そこは踏み入れていいものか迷うエリアだからね。訊かれた本人は辛いことを思い出さなきゃならないし。だから、どこの学校に通ってたとか知ってる過去もあるけど、日常会話の中でふと触れることがあれば軽く聞いてあげるくらいにしてるよ」
「そうなんだ……。まだここに来たばっかだけど、戦う原動力にできるくらいの過去があるなんて見えない。強いんだな、みんな」
「頑張って強くなったんだよ」
これまでの仲間たちのことを想起して、ユダは誇らしく思い称えた。
「特にユダは、そんなふうに見えない」
「え。そう?」
「なんか、何も抱えてなさそうな感じがする」
「知り合ったばかりなのにそう見られるの、なんかショックだなぁ……」
ユダは軽くヘコんだ。しかしそれはフリで、その口から思わぬ告白をされる。
「でも。あながち間違ってはいないかな」
「え?」
「実は私、過去の記憶がないんだ」
あまりにもユダが事も無げに「記憶喪失」を告白したので、ペトロはぽかんとしてしまった。
「記憶……ないのか?」
「うん。そうなんだ。気付いた時には、包帯を巻いて病院のベッドに寝てた。それが“私”にある一番最初の記憶」
「……なんか……ごめん」
「いいよ。気にしないで」
ペトロは気まずくなって謝るが、ユダはやっぱり事も無げに言った。
記憶がないことを、恐怖も不安もなく受け入れている訳ではないだろう。ならば、自身の状況をどう考えているのだろうか。しかしそんな憶測も立てられないほど、ユダの表情はすっきりしている。
これ以上はあまり詮索しない方がいいと考えるペトロだが、その外側と内側のアンバランスさが気になってつい訊いてしまう。
「……記憶がないって。生活に支障はないのか?」
「あまりないよ。忘れてるのは自分に関することだけだし、世間一般の常識とか社会のルールはちゃんと覚えてる。だけど、去年以前のことは全く覚えてないし、大統領や首相が誰だったかも忘れてるから、社会情勢とか必要なことはざっと調べて頭に入れてある」
「知り合いとかも、覚えてないのか?」
「そうだね。だから、ばったり出会してもわからないかな」
「家族のことも?」
ユダは「全く」と首を振った。
「自分の身辺でわかることは、名前と、その時住んでいた場所と、通っていた大学。財布に入ってた身分証と学生証が、『私』を証明する全てだった。でも本当に、不思議なくらい普通に日常を過ごせてる。事務所の社長ができるくらいにね」
「家族の顔も名前も覚えてないのに、全然ショックじゃないのか?」
「薄情かな。私って」
そう言って後ろめたさを表情に覗かせるが、自分を薄情だと口にした割には、どこかにいる血縁に思いを馳せるような素振りは見受けられない。自身の記憶喪失をずっと事も無げに語っているその様子は、ペトロに不思議な感覚を抱かせた。
「あ、そうだ。ペトロくん。乾杯しようよ」
重い話題を自ら逸らすユダは、置いたカップを持った。コロッと雰囲気も変わったので、ペトロは少し戸惑った。
「乾杯はさっきしただろ」
「普通の乾杯はね。歓迎の方がまだだったでしょ」
「いいよ、今さら。しかもコーヒーで」
「いいじゃない。ほら。カップ持って」
どうしても乾杯をしたいユダに置いていたカップを持ち上げられ、ペトロは仕方なく取っ手を持った。
「私たちの事務所にようこそ。これからよろしくね」
「お世話なります」
二人はカップを傾けて乾杯した。カップがぶつかる音とともに、コーヒーの表面が波紋を広げる。
何気ないことなのに、ペトロは何となく自分の胸がむず痒くなるのを感じた。