その日から、ミナトの世界は一変した。グレスは、彼女は、ミナトにとっての重力だった。ミナトを、この世界に留めておくための重力。
そしてその重力を、ミナトは永遠に失ってしまった。
重力をなくせば、物体はどこにも向かうことはなく、ただ漂うだけだ。だが、何かが引き戻そうとしていた。
それは小さく、暖かな光だった。
意識の覚醒は、深い眠りから覚めた時のような気だるさを伴っていた。ツン、としたアルコールの匂いと、規則的な音を発する心電モニターの音。それは今いる場所が病院であることを示していた。
助かったのか、という安心感と、彼女を失ってしまった深い悲しみが同時に押し寄せ、顔をしかめる。
それからようやく目を開けると、白い天井が目に入った。その右端ではシーリングファンがゆっくりと回っている。視線だけを動かして窓際を見れば、太陽の光が入ってきているのが分かった。
それに、この重力。人工的な重力では作り出せない、体を大地に縛り付けるような重力。
「......地球、か」
と、ミナトは掠れた声で忌々しげに呟いた。胸に穴が空いたような感じだった。グレスの形をした穴が、ぽっかりと心に空いている。頭の中でその場所を探ろうとすれば、全て吸い込まれてしまいそうな虚無。
そして、ドアが開いた。今度は首を巡らせて音の方向に顔を向ける。ナースがクリップボードとにらめっこしながら病室に入ったが、こちらの目が覚めていることに気づいたのか、慌てたような顔をして部屋から出ていった。
すぐに主治医か何かがすっ飛んできて、あれやこれや言われるに違いないと確信したミナトは、大きく深呼吸して、瞼を閉じた。
あの時、あそこには何かがいた。
ミナトは、〈ニュー・ホライズンズ〉が遭遇した出来事に思いを巡らせていた。船の周りを飛び交う謎の襲撃者には手も足も出なかった。
それが何かは分からないが、そのせいでグレスは死んだ。
どうして自分なんだ、と思うのと同時に、仇を取ってやれるのも自分しかいないと気付いた。グレスほど上手くやれないかもしれないが、出来ることは全てやろうと、ミナトは決心した。
しばらく後、再びドアが開いて数人分の足音が聞こえたので、目を開けた。主治医と思われる禿頭の男性と、その後ろにぴったりついてきているのは、UNIの制服を着た男が二人だ。
「私の言葉が、分かるかな?」
ミナトは頷いて、体を起こそうとしたが、医者の男はそれを制するように両手を前に出した。
「気を付けて、ゆっくりと」
その言葉通り、一つ一つの動作に注意を払いながら、体を起こす。まるで凍り付いた体を徐々に溶かしていくように、ゆっくりと上半身を起こした。
だが、どこか腕に違和感があった。まるで神経が圧迫されて痺れるような感覚があった。
「筋肉維持の電気治療(EMS)を続けていたから、身体機能の極端な低下はないはずだ。まだ動きにくいかもしれないが、徐々に戻るだろう」
「ここは、どこです?」
言葉を噛みしめるように、ミナトは言った。
「ここは地球だ。スイスのジュネーブにある、シラス記念病院」
ジュネーブ。その名前には聞き覚えがあった。確かUNIの本部がある場所だ。
険しい岩山のような顔つきに、浅黒く焼けた肌は百戦錬磨の実力を持っていると思わせる男は、医者に向き直って続ける。
その顔は、まさしく凝り固まった権力を体現しているようで、ミナトは快く思えなかった。
「話せるまで回復しているのなら、あとは我々に——」
「それはダメだ」
医者は有無を言わせぬ口調で反対した。
「彼はまだ、自分に何が起こっているのかすら理解していないんだぞ」
その回りくどい、妙な言い方に、ミナトの心臓がドクン、と跳ねる。何かもっとひどいことが起きているのだろうかと、不安が募る。
「しかし我々には命令が出ている」
「ならばこちらには、あなた方を追い出す権限がある」
断固とした言い方に、制服組は顔を見合わせた。なるほど、この医者の言葉にはパワーがあるんだと、ミナトはぼんやりと思った。
「出て行ってくれ」
ドアはそっちだぞ、と指し示すように手を伸ばす。やがて男たちはその態度に反論する気力をそがれたのか、そそくさと部屋から出ていった。ドアが閉じられ、ため息をついた医者はこちらに体を向けた。
「君は、半年近く眠っていたんだ。だから、今の状況を理解するのに時間がかかるかもしれない」
その口調は、先ほどまでの優しい口調に戻っていた。
「でも言わなきゃいけないから、今言っておくよ。君を救助したとき、スーツの酸素残量はゼロに等しかった。それに、応急処置も間に合わなかった。それで......数分間、君の脳に酸素が行き届かなかったんだ」
そこから先の、医者の言いたいことは、ミナトにはすぐに理解した。低酸素状態が数分間続くとどうなるか、それは宇宙軍に入るときに散々教えられることである。
つまり、酸素が十分に脳に届かなければ、脳細胞が崩壊して様々な後遺症をもたらすというのだ。
「症状としてはいくつかある。幻覚とか幻聴とかも起きるかもしれないし、短期、長期記憶の欠損も起こり得る......どこか体に異常はないか?」
そう言われて、改めて自分の身体を見下ろしてみる。どこにも異常は無いように思えた。だが、やはり手の感覚が何かおかしい。
というより、何も感じなかった(・・・・・・・・)。
「手か」その様子を見ていた医者は口を開き、ミナトの手を取った。だが、感じるはずの肌の柔らかさや温かみは一切感じることはなかった。
ミナトは、顔から血の気が引いていくのがはっきりと分かった。手が、指が、全く動かない。これからどうやって生きていけばいいのか分からず、頭の中が真っ白になる。
「じゃあ」ミナトは恐る恐る口にした。
「グレスたちの仇は取れない......?」
「......否定はできないな」
ミナトはがっくりとうなだれた。これでは、グレスの無念をどうやって晴れせばいいのだろう。
これから一体、何のために生きればいいんだ! そう叫びたいのを必死に抑え、こらえきれなかった思いが嗚咽として漏れた。
その様子を見かねたのか、医者は黙ったまま立ち上がると踵を返した。
「待ってください!」
部屋を出ようとする医者を、ミナトは呼び止めた。ぽっかりと穴の空いたように痛む胸を押さえようとしたが、腕はむなしく痙攣するだけだった。
肩越しに向けられた視線は、憐れんでいるようでもあったが、諦めるなという強い意志も感じた。
「......諦めるなよ」
それは、あらゆることから逃げようとしていたミナトの心に、スッと収まったようだった。そしてその隣には、『彼女』の姿が見えていた。
ありえない。そう思うと同時に、つい先ほどの医者の言葉が脳裏をよぎった。幻覚や幻聴の症状があるかもしれない、彼は確かにそう言った。
しかし目の前にいる少女は、恐ろしいほどにリアルな質感を持っていた。
『やれることはあるでしょう?』
風のように揺れる金色の髪が、彼女の微笑みを縁取っていた。
しばらくその光景に心を奪われていたミナトだが、医者の足音で我に返ったように視線を戻す。その背中が部屋から消えた頃には、彼女の姿は見えなくなっていた。
その時ベッドわきのテーブルに。グレスからもらったブレスレットが置いてあるのを見つけた。
必死に手を伸ばし、掴もうとするが指を動かせない。何とか指先に引っ掛けてこちらに手繰り寄せようとするも、ブレスレットは床に落ちてしまった。
少し前ならできた事が、今ではできない。そのことをはっきりと思い知ったミナトは、しばらく床に落ちたブレスレットを見つめることしか出来なかった。
しかもそれだけではない。グレスも、隊のみんなも、全員死んでしまった。眠っている間に、世界は半年も時間が進んでいる。
あらゆるものから隔絶され、耐え難い孤独感が胸からあふれ出した。それは喉元を通って、鼻をツンとさせたかと思うと、目から零れ落ちた。
潤んだ視界に情けなさを感じて瞼を閉じると、「ちくしょう」と小さく悪態をついた。
その後先ほどの制服組に色々と当時のことを聞かれたが、よく分からないとしか答えようがなかった。
ロンが観測していたデータも、彼の遺体と共に宇宙を漂っているのだろう。結局軍も未だ正体を掴めずじまいということだった。
そして冥王星の襲撃から七か月後、ニュースを見ても、世界はあまり変わっていないように思えた。大勢の人間の運命を変えてしまったと言っても、太陽系中に飽和した人類からしてみれば、ほんの一部ということなのだ。
目覚めて一か月が経過したミナトは、リハビリによって歩けるほどまでに回復していた。身体機能についてもほとんど異常はないが、未だに手指の麻痺という問題は残っていた。
この麻痺の感じを言葉にするのは難しい。頭から手に繋がっているはずのケーブルがせん断され、脳からの信号が届いていないのだ。だからどれだけ力を込めて動かそうとしても、結局徒労に終わってしまうのだった。
そんなある日、リハビリのノルマを終えたミナトが病室に戻ると、テーブルの上に一通の手紙が置いてあることに気づいた。真っ白な封筒には送り主の名前はなく、ただ宛名だけが書かれていた。
「紙の手紙を寄越すなんてな」
しかも手を動かせない人間に、という皮肉を飲み込み、代わりにため息をついた。
これの送り主が誰だか分からないが、ミナトの現在の状況を知らないらしい。このままテーブルから叩き落としてしまおうかと考えたが、内容が気になってしょうがなかった。
震える指先で手紙に触れ、腕の動きだけでゆっくりと封筒を開いた。それから中身を引っ張り出して開く。
そこにはただ一言、『植物園に来い』とだけ書かれていた。
「植物園か......確か近くにあるんだったな」
テーブルの上に広げられていた観光用のパンフレットを見てみると、確かにUNI本部のすぐ近くに植物園があった。
地図の植物園の場所に手を触れると、ポップアップが表示されて、そこには千年以上の歴史があることが記されていた。それ以外には特筆するようなものは何もなく、ただの植物園である、というのが印象だった。
誰かは知らないが、ミナトを呼びつけた。これが単なる人違いの類でないのならば、この状況を打破する可能性がある。なら、それに賭けてみせようというのが、ミナトの魂胆だった。
まだ病院から外出する許可は貰っていないが、だからといって申告する気もなかった。相手はわざわざこうやって他人に漏れないように、手紙を置いていったのだ。誰にバレて欲しくないのかは分からないが、下手な真似をしてチャンスを逃すのは嫌だった。
病室のドアを開けて、廊下には誰もいないことを確認すると、さっさと歩きだした。この病院には半年間いるが、目覚めてから今までは一か月しか経っていない。顔見知りと言っても、担当のヒューゲル先生と、リハビリを見てくれているインストラクターくらいだ。
こそこそしているのもかえって怪しまれるので、顔見知りの人間がいそうな場所を避けつつ、堂々と外へ向かった。
何だか悪いことをしているみたいだ、と良心がチクリと痛む。しかし戦えと言ったのは他でもない、あのヒューゲル先生だ。もし見つかったら、そうやって反論してやろうと心に決めた。
しかし結局誰とも会うことなく、思いの外あっさりと外に出ることが出来た。空には雲一つなく、カラッとした空気は気温の高さをさほど感じさせなかった。
病院内の鬱屈とした空気が、爽やかな暑さにふれて発散していくのを感じながら、軽やかに足を進める。
そして病院の正面には、旧国連事務局の建物を改装したUNIの本部が見えた。
太陽系中の人類を纏める役割を持つ機関の本部が、地球にあるというのは少し違和感があった。確かに人類発祥の地ではあるが、これでは結局太陽系の外にまで進出する意味はあったのだろうかと、思わずにはいられなかった。
宇宙開拓と移民が進み、人々が宇宙に広がっていくと、かつての国家の枠組みを超えた組織、国連よりも強い力を持った組織が必要とされた。
それは宇宙という新天地に向かうにあたっては、人類が一丸となって進む必要があったというのが大きい。しかしながら、一部の特権階級たちが従来のシステムを維持したかったという思惑も含まれていた。
そしてUNIの設立から千年近く、いくつかの分裂と戦乱を経てもなお、UNIの本部はジュネーブに立ち続けていた。
「結局、人は重力に縛られたまま、か......」
そんなことを取りとめもなく考えつつ、植物園へと向かう。周囲には高いビル群もなく、コロニーにいたときのような、息の詰まる感覚は一切なかった。鳥のさえずりがあちこちから聞こえ、心地よい風が頬を撫でる。
建物もコロニーではあまり見かけない三角屋根のものが多く、旧世紀の情緒を感じさせた。それにこうして地球上を歩いていると、この星が千年前には死にかけていたとは到底思えなかった。
しかし穏やかな時間が流れていると感じると同時に、その感覚は傷口に塗った塩のように、ミナトの心を焦らせた。
地球で目を覚ましてからずっと、心の中に穴が空いているような気分だった。要はそれを埋めたいのだ。埋められなくとも、動いていれば気を紛らわせられる。
ミナトは、そう思うのだった。
本部の敷地は広大なので、ミナトはその向こう側にある植物園に行くために大きく迂回しなければならなかった。それからようやくたどり着いたはいいものの、この手紙の送り主を見つけることは出来なかった。
面倒だな、と思いつつ看板に描かれた地図から、送り主がいそうな場所を探すしかなかった。すると、グリーンハウスという建物に目が留まった。説明文によれば、ガラス張りの小型の温室らしいことが分かったので、とりあえずそこに向かってみることにした。
千年以上の歴史があるといっても、結局はただの植物園だ。他の観光地ほどのインパクトがあるわけでもなく、客はまばらだった。きっとこれくらいの方が密会にはちょうどいいのだろう。
目的の場所に近づくと、確かにそれは小屋のような温室だった。だが普通の温室ではないと思わせるのは、周囲に配置された黒服の男たちが見えたからだ。
恐る恐る近づいてみるが、黒服たちはこちらに目もくれない様子だった。周囲をずっと警戒しているだけで、まるでミナトは存在していないかのようだった。
ガラス張りの温室に足を踏み入れると、中にはヤシのような木が植えられていた。そしてそのヤシの前に、ベージュのパンツスーツ姿の女性がこちらに背を向けて立っていた。アッシュブロンドの髪は腰にまで届くほど長く、日差しのおかげで輝いているように見えた。
「すまないね。わざわざこんな所までご足労いただいて」
女性は芝居がかった動作で振り返り、鮮烈なルージュを引いた唇の口角を上げた。