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第32話「赤砂の大地」

 火星のスキャッパレリ宇宙港で前二輪式自動三輪車(リバース・トライク)をレンタルしたミナトは、赤茶けた大地を走っていた。

 港周りに建てられた街はとっくに後方へと過ぎ去り、クレーターの外縁部に向かうにつれて巨大な農園に姿を変えていた。

 しかしそこで働く人々やドローンの姿はなく、あまりにも静かだった。空を見上げれば、地球の月のように〈ヘリオス�U〉が浮かんでいるのが見える。そこでアカネたちが次の作戦に挑もうとしていることは知っていたが、ミナトにはどうでも良かった。

 むしろ足を引っ張りかねないのだから、行かない方が彼女たちのためとすら思っていた。

 〈木星戦役〉での作戦中で意識を失い、目を覚ましたミナトに告げられたのは、残酷な真実だった。

 ミナトがアカネを見殺しにしかけたという事実は、今でも楔のように胸に突き刺さっている。その理由がどうあれ、大切な人をまたもや失うところだったのだ。ガルダからの無期限謹慎を言い渡されなくても、ミナトはもう戦うことなど出来なかった。

 それに今は、最も大事な真実を受け入れなければならなかった。

 壁に囲まれた穀倉地帯を抜けると、目に入るのは破壊された街並みと荒れた赤茶色の大地だった。

 三十年前に起きた火星の独立戦争に敗北し、UNIの支配下になっても、それに反発する勢力は残った。

 結果、内戦は三十年の月日が流れても続き、現在でも散発的な戦闘は起きていた。レジスタンスたちは地下に潜り、開拓事業者や水鉱山の労働者に身をやつして活動を続けている。

 遠くで稼働している風車も、そのいくつかはレジスタンスが勝手に使っているのだろう。

 すり鉢状のクレーターを上り、このスキャッパレリ・クレーターを一望できる場所に、その墓地はあった。この場所にグレスが埋まっているのだ。

 あの時抱えた、凍り付いた彼女の身体が。

 トライクを入り口で止め、歩きでその場所に向かう。火星独特の植生が広がる緑の墓地はとても穏やかで、この空の向こうで火星の命運をかけた戦いが起こるなどとは、想像もさせなかった。

 この星には最初、地球からの植物が運ばれてきていたが、長い年月を経てこの場所に適応する形へと変わっていった。ブレスレットに使われている香草も、その一つだ。

 代わり映えのしない墓地をしばらく歩き、ついに見つけた。

 その真新しい墓標には、グレス・アルティラの文字が刻まれていた。跪いて、ブレスレットをはめた左手で触れる。文字をなぞってみると、胸が苦しくなった。鼻の奥がジンとなり、目頭が熱くなる。

「そんなに認めたくない?」

 背後に立っていたグレスが訊ねた。

「何なんだよ、急に」

「君が無視するから......」

「だって、お前はグレスじゃないだろ」

 図星か、幽霊は押し黙ってしまった。心のどこかで彼女がまだ生きているんじゃないか、どういうわけかミナトの前に姿を現したのだと、そう思っていた。

 しかし、全部幻想に過ぎなかった。考えれば当たり前のことだったのに、ミナトはそれを認めてしまうのが怖くて、まだ彼女と離れたくなくて、現実を拒んだ。

 その結果がこれだ。

「確かに、私はそこにいる彼女とは違う。でも、同じ魂の情報を持ってる。記憶も、心も、君が呼んでくれたから——」

「——うるさいッ!」

 ミナトは獣のように叫ぶと、振り向きざまに拳を振るった。だが身体は彼女を通りぬけ、目標を失った拳が空を切り、ミナトはバランスを崩して地面に倒れ込んだ。

 それから、溢れ出る嗚咽を抑えきれずに、涙を流した。

「お前は一体何なんだよ......どうして彼女のフリをするんだ? どうして消えてくれない!」

 現実を認めれば、幽霊は消えると思った。しかし、それでもまだその姿が見える。それが、ミナトには耐えがたく辛いことだった。

「......私に、消えて欲しいの?」

「あぁ! 消えて欲しいよ! もう君の姿なんか見たくない! 思い出したくないんだよ!」

 その時、大丈夫ですかという女性の声が聞こえたので、そちらの方に頭を向けた。そこには、えんじ色の火星服を着た妙齢の女性が立っていた。

 どこまで聞かれていたのかは分からないが、ミナトは急に恥ずかしくなった。目元を拭い、頭を軽く下げてその場を去ろうと振り返ると、女性がその手首を掴んだ。

 その感触から、手が酷く荒れていることに気づいた。微かに震えているが、無理やり引き離そうとすれば壊れてしまう、そんな危うさがあった。

「あの、そのブレスレットは、一体どなたから譲ってもらったのですか?」

 その顔を改めて見てみると、どこかグレスに似ているような気がした。金髪に、特に目元が似ていると思った。

 幽霊の姿は、見えなくなっていた。

「これは......俺の、大切な人から貰ったんです」

 ブレスレットに触れると、まだ微かに香草の匂いがした。

「......名前は?」

 すがりつくような表情で、女性が訊ねる。そしてミナトはグレスの名を告げると、女性はその場に泣き崩れた。

 あまりに急なことで困惑していたミナトは、とりあえず他の参拝者の邪魔にならないような場所に移動させようとした。泣き続ける彼女をなだめながら、近くのベンチに座る。

 それでようやく落ち着いたのか、女性はゆっくりと話し始めた。それによれば、彼女はグレスの母親らしく、ここに埋葬されてからは毎日訪れているとのことだった。

「あなたが、娘を連れ返ってきてくれたのね」

「はい......娘さんのことは、本当に残念です。どういうわけか、自分だけ生き残ってしまって」

 脱力したように首をたれて、ミナトは続ける。

「自分ではなく、優秀な彼女が生き残るべきでした。もしそうだったら、こんなことにはならなかったでしょう」

 ミナトはずっと後悔していた。あの日、グレスを目の前で死なせてしまった瞬間から、生き残ってしまった自分を呪った。

 タイラントを倒せば、その気持ちも少しは晴れると思ったが、それでもあの日の幻影が頭の中からいなくなることはなかった。

 彼女の幻を見る度、その声を聴く度にミナトは嬉しかった。しかし胸が痛かった。胸に空いた、グレスの形をした穴から、血を流しているようだった。

「もう、自分を許してもいいんじゃないでしょうか?」

「......え?」

 女性が発した言葉に、ミナトはその顔を見上げた。口元を緩めた彼女は、自分の左手にあるブレスレットに触れた。

「このブレスレットは、大切な人の安全を願って作るものなんです。私も昔、夫に同じものを作りました。娘が、グレスがそれをあなたに渡したということは、あの子にとってあなたが大事だったからでしょう。だからあの子のこと、信じてあげてください。そして、グレスが信じたあなたのことも」

 どうして、とミナトは聞きたかった。どうしてあなたはそこまで強いのですか、と。自分の娘が死んだことは、ミナト以上に辛いはず。なのに、どうしてそんなことを笑顔で言えるのだろうか。

「私は、ちゃんと信じてますよ」

 そう言って、自分の胸をトントン、と叩く。

「だからあなたも胸を張って、立ち上がりなさい。私たちには二本の足があって、この大地に立つことができるのですから」

 その時、頭上から何かが落ちてくるような音が聞こえてきた。空を見上げると、光を纏った物体が一直線にこちらに向かってきていた。

 それが減速をかけると、光は人型のシルエットとなって、やがて〈ジャッカル〉だと分かった。

 〈ジャッカル〉に大気圏に突入できる能力があるとは知らなかったが、この機体にはまだまだミナトが知らされていない性能があるのだろう。

 優しく目の前に降り立った〈ジャッカル〉は、手に持ったコンテナを地面に降ろすと、こちらに視線を向けた。

「あなたは......」

 グレスの母が、目を見開いてミナトを見た。だが、驚いたような視線はすぐに、どこか物悲しさを感じるものに変わった。

「行ってしまうのね......グレスや、あの人のように......」

 えぇ、とミナトは両膝に手を置くと、脚を踏ん張ってから立ち上がった。吹き抜ける風を全身で感じ、自分にはこの大地に立てる両足と、誰かに差し伸べるための両手があることを感じた。

「俺は、行きます。この大地にまた、立てるように」


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