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第十六話【最終回】 俺が勇者さまだと? そんな馬鹿な!

”‥‥次!、旅の奇術師『赤毛の馬鹿』団、前へ!”

 幕があがると同時に、歓声が飛び込んでくる。

 眼前に広がっているのは、舞台を中心に扇状に弧を描いて広がっている劇場の観客席と、そこにびっちりと埋めつくされた観客達の顔、そして頭上に広がっている青空であった。

「‥‥さて」

 繋いでいたマリーの手は震えていた。ジュリオは強く握り返す。手前まで歩いていき、シルクハットを取って頭をさげた。中からばたばたと何匹かの鳩が表れ、人々は喝采を送った。手を離して、頭を振って転げ回った。マリーが頭の後ろを叩くと、何処に隠れていたのか、一匹の鳩が飛び出して飛んでいった。やれやれと頭を振ると、どっと笑い声が起こった。

 出し物を披露しながらも、ジュリオはあちこちに目を走らせる。

「‥‥あそこに‥‥‥タイ、ホーの王様か‥ ‥‥」

 斜め上の別席に、黒髪の小男が偉そうに座っている。他にも貴族らしき人物があちこちに見受けられる。

 時計の針は十一時五十七分を指している。全員に示し合わせている時間まであと六分である。

「えーっと、皆様への次の出し物は!」

 観客の全員に聞こえる様に、大声をあげる。 奥からマリーが二つの箱を持ってきた。ステージの両端に置く。

「取り出したるはその辺で捕まえた野ネズミ」 

服の中からネズミを掴んで出す。じたばたと暴れ、ジュリオの手を噛んだ。

「痛い!、噛まれた!」

 手を離した途端に、ネズミはステージ中を逃げ回る。

「待て、待てー!」

 ネズミは右の箱の中へと逃げ込んだ。ジュリオは箱を掴んで中を覗き込む。

「おや?」

 首を傾げ、箱を横にして観客席の方に向けてぐるっと回す。

 中は空っぽだった。マリーがもう片方の箱を開ける。途端にネズミが飛び出し、さかんな拍手があがった。

 時計の長針と短針が上向きで重なり、正午を告げる鐘が響き渡った。

「‥‥‥」 

 ジュリオは遠くの丘を睨む。何も起こらず、唇を噛んだ。

「さあさあ、どんどん行きましょう!」

 マリーに小さな白いボールを渡される。

「これは不思議なボールです」

 上着の中へと入れる。

「ワン、ツー、スリー‥‥‥はいっ!」

 ボールは兎に代わり、またそれを入れるとボールに戻った。

「はいっ、はいっ」

 それを何度か繰り返す。そうしてるうちに、

「おやっ!」

 ボールは跡形もなく消えてしまい、ジュリオは両手をあげながら、ボールの行方を探す。その間、ちらちらと時計に目をやる。

「‥‥‥まだか‥‥‥」

 幕の内側の係員に、そろそろ終わる様に合図され、焦る気持ちを押さえる。

 ボールが転がってきた観客席の方から驚きの声があがる。

「おお、そんな所に!」

 わざとらしく驚いてみせる。

「どなたか、こっちへ投げてくれませんか?」

 一人の青年が、ボールを放った。高くあげたそのボールは、落下する前に鳩へと変わり、そのまま飛び立っていく。拍手の波の上を鳩は飛び続け‥‥‥。

 ”な、何だあの兵は!”

 鳩の飛んだ先‥‥‥丘の向こうには、緑色の制服に身を固めた、兵士の大部隊があった。観客達の間からどよめきが広がる。貴賓席のタイ、ホー王は、驚きに椅子から転げ落ちていた。

「今だ!」

 ジュリオは舞台の前端に立った。

「皆さん、落ち着いてください!」

 当然、誰もジュリオに注目する者はいない。

「我が、赤毛の馬鹿団 団長の私に不可能の 文字はありません。我が魔術をもって、あの者達を退けてごらんにいれましょう!」

”嘘を言うな!”

 声の大きな先程の若者が野次を飛ばしてきた。彼は予めに雇っていたサクラである。

「静かに!、あんなのは何でもありません!、ただの余興だと思って下さい!」

 ”余興だと!、あれの何処が余興だ!”

「嘘ではありません!」 

 大きな箱が、台車に乗せられて運ばれてくる。

 ジュリオはパチンと指を鳴らす。それに合わせて鼓笛隊が、太鼓を鳴らし始めた。

「この中に‥‥‥全ての答えがあります!」

 バン!と、箱の側面を叩いた。自然と人々の関心が、ジュリオに移っていく。

 遠くのセミディアル軍をちらと見て、額から汗を流す。先に動く事はまずないと踏んではいたが、保障は無い。万一、今、攻められれば、一たまりもない。

「ではっ!」

 ジュリオは芝居がかった口調で、大きくマントを翻し、箱の上にかけた。

「皆様に、大陸一の魔法をご覧にいれましょう‥‥‥はい、ワン、ツー、スリーっ!」

 マントを取り去る。そこには箱はなかった。

「皆の者!、よく聞くかよいっ!」

 変わりに、一人の少女が立っていた。

 白いひらひらのブラウスを下に、両肩には大きくでっぱった飾りが付けられている。短いスカートと一繋ぎの赤い服は硬そうで、腰の所は驚く程に細く締められている。

「我が名は、マリアンデール、ライゼリート、ボアジェク三世‥‥‥この国の正当なる王位継承者であるっ!」

 しんと静まり返った場内に、マリーの細い声が響き渡る。

「あの、ルオーなる者は不埒にも、我の父からこの国を奪いとり、セミディアルに売り渡した!」

 舞台の出入口から、小銃で武装したタイ、ホーの兵士が表れ、一瞬ジュリオをどきりとさせたが、マリーの言葉を聞いて、顔を見合わせ、動きを止めた。彼らも元はといえば、ボアジェクの兵士に違いない。

「そして、今、あそこにある軍は、その最後の自治すらも奪おうとしている!」

 マリーは丘の上のセミディアル軍を指した。

「このままでは、ここは戦場と化し、セミデ ィアルに全てを奪われるのは必定!」

 ”な、何をしている!”

 ついに表れたタイ、ホー王‥‥‥ルオーは、肥えた体を震わせた。

「さっきから聞いていれば、何処の誰とも知れぬ小娘が勝手な事を‥‥ええい、早くこの狼藉者を取り押さえよ!」

「‥‥い、いえ‥‥‥自分は知っております‥‥‥あの方は‥‥‥マリアンデール王女 です」

「馬鹿を言うな!、その者は既に死んでおるわい!」

「いえ、間違いありません」

「な、何じゃと!」

「間違いありません!、あの方は、マリアンデール王女殿下ですっ!」

 客席にどよめきが走った。貴賓席の貴族達は、隣通した者どうし、何かを口にしている。懐中時計を睨んでいたジュリオはフーと深呼吸をする。出番が遅れたせいで、ランダースが行動を開始するまで時間がなくなっている。マリーの隣に行き、三という数字を見せる。マリーは正面を向いたまま、黙ってうなづいた。数字は示し合わせてあった会話の段落番号である。都合、二番をカットする‥‥‥という意味は伝わった。

「ルオー‥‥‥お前に問う!、タイ、ホーの長として、あの軍を退ける策はあるか?」

「あ‥‥‥いや‥‥‥それは‥‥‥国内の兵 を結集すれば‥‥‥」

 突然話題をふられたルオーは、しどろもどろに答える。

「集めた所で、あの軍には勝てない!」

 マリーは客席に顔を戻す。

「そもそも、ボアジェクが戦いとは無縁でいられたのはなぜか?、‥‥‥それは、この国が永世中立を宣言していたからに他ならない!、それが、寄せ集めの部隊でどうなるものでもない!」

 ”なら‥‥‥お前には、どうか出来ると、言 うのか?”

 ステージ脇の階段を登りながら、そう問いかけてきた人物がいた。ジュリオは息を止めて身構える。

「‥‥‥クライス‥‥‥執政官‥‥」

「こんな所で茶番を演じてるとはな‥‥‥失望したよ」

「‥‥‥」

 二人は舞台上で睨み合う。ルオーは四つんばいになって逃げていった。マリーは演説を中断した。

「何を考えているか知らぬが、この期に及んで、どうにもにらないぞ、ジュリオール。セミディアル軍は精強で、ここの部隊は烏合の衆‥‥‥それが現実だ。民衆を味方につけた所で、どうにもなりはしない‥‥‥ 結局、お前はそれを覚える事はなかったな」

「‥‥‥いえ‥‥‥私はちゃと現実を見ていますよ。まずは彼女の話を聞いて下さいよ」 

額から汗を流しながら、ジュリオはにやと笑い、マリーに先を続ける様に目くばせする。

「タイ、ホーに投資していた貴族達よ!、ここで攻め滅ぼされれば、それは無に帰るのみ!、それよりは、ここで私にかけた方が懸命というもの!‥‥‥私には、この国を、あのセミディアル軍の脅威から救う事が出来る!」

 その言葉の波紋は小さなものではなかった。貴族達の全員が騒ぎだす。

「馬鹿な!、セミディアルがそんな事をするものか!」

 クライスの登場は、完全に予定外の事であった。セミディアルの有力者として知れ渡っている彼に否定されれば面倒な事になる‥‥‥ジュリオは腹を固くさせた。

「騙されるな!、軍は確かにある!」

 マリーのその言葉は、予定に無い。

「この町を襲うのが目的でないのなら、なぜあれほどの軍を集結させているというのか!、セミディアルに加担した貴族達!、これで分かっただろう!、お前達は騙されたのだ!、この上、まだこの者の口車に乗ろうというのか!」

「‥‥く‥」

 クライスは目を見開いた。

「口煩さい者どもだ‥‥‥素直に従っていればよかったものを‥‥‥」

 懐に手を入れる。再び抜いたその手には、拳銃が握られていた。

「王女の名を語る不届き者と、その一党は、この場で私が始末をする。軍には私から撤退命令を出しておく‥‥‥それで元通りだ。皆も私に従うだろうからな」

「‥‥校長‥‥‥あなたは‥‥‥」

 ジュリオはマリーをかばう様に、クライスの前に立って両手を広げた。

「厳しくとも、節度は曲げない人だと思っていました‥‥‥それが‥‥‥」

 クライスの後方から、どかどかと兵士達が舞台に上がってくる。先頭の貴族の合図で、一斉に銃を構えた。

「‥‥‥ふふ‥‥‥ジュリオール‥‥‥お前の負けだ」

 ダン!という銃声の音が、青空に響き、山々にこだましていった。

「ジュリオ!」

 マリーが叫んだ。

「‥‥‥痛」

 胸を押さえていたが、

「‥‥‥くない‥‥‥あれ?」

 代わりにクライスが腕を押さえて呻いていた。

「どうなって‥‥‥」

 ”マリアンデール王女!”

 五人の貴族達は、走ってジュリオを追い抜き、マリーの手前で膝をついた。後に続く兵士達もそれに倣う。

「殿下、もはや、我々にセミディアルに対抗する力はありません。殿下にその力がおありなら、どうかその力を示し、我らをお救い下さい」

「‥‥‥」

 呆然としたマリーはジュリオに顔を向けた。

 当のジュリオは、あきれた連中だなと、肩をすくめ、それから笑って首肯く。

「で、では‥‥‥再び、ボアジェク王家への 忠誠を誓ってもらえますね」

 貴族達は一瞬だけ戸惑ったものの、他に手はなく、すぐに全員が承諾の意を示した。

「‥‥‥狼煙をあげたあと、東西の二つの出口を、全軍を二つに分けて武装させた兵士で固めなさい」

「元々、少数の兵さらに二つに分けるのですか?」

 ジュリオが間に割って入る。

「足りない分は、かかしでも何でも立てて、とにかく数を多く見せるんですよ」

「‥‥‥しかし‥‥」

「実際に戦いにはならないから大丈夫だと思いますよ。我らの王女様は、事の他、戦いが嫌いだからね」

 マリーはクスと笑った。

「むー‥‥‥それで、その後は?」

「宣戦布告します」

 感激に浸る間もなく、マリーは最初の命令を出した。




「情報通りだな」

 オストファーレン軍の隊長は、遠くに上がった狼煙を見て、ほくそ笑みらがら遠眼鏡をおろした。

「‥‥‥こんな所に隠れていた甲斐があったというもの」

 すぐに全軍進攻の合図を、副官に伝える。セミディアルに屈したボアジェクの王都に、反乱が起きるとの情報を掴んだのは、三日程前の事である。戦力差による敗戦ムードが高まる国内において、それは敵同盟国の首都を陥落せしめるまたとない好機であり、王を始めとした重鎮達は、こぞってその話に飛び付いた。また、タイ、ホーの圧政はオストファーレンでも知れ渡っており、反乱が起きる事を誰も自然な事として受けとめていた。

 まだこの時点においては、反乱に対して不審の念を抱く者があったが、タイ、ホー支配に対する反乱軍のリーダーを名乗る男が、接触を求めてきた事から、話はにわかに真実みを帯びてきた。ランダースはボアジェクの騎士であり、その頃の彼を知っている者がオストファーレンに何人もいたからである。支援の名目で同時に進攻する事を約したのは一昨日、それから集めるだけ軍を集結させ、郊外の丘陵へと慎重に潜伏させた。作戦の成功は、内部からの協力が不可欠であり、事前に見つかる事は許されなかった。

 丸一日経った後、手筈通り、都から合図があった。

 軍はそれまで隠れていた丘の林を出た。

「‥‥ふん‥‥利用されているとも知らず‥‥」

 ”た、隊長!”

 先程の副官が顔を青ざめさせてテントに入ってきた。

「どうした?」

「それが‥‥‥たった今、ボアジェク王国の使節を名乗る者が‥‥」

 副官は、筒状に丸められた書面を渡した。

「これは‥‥」

 読み進めていくうちに、顔が怒りに赤く染まっていった。

「くっ!」

 遠眼鏡を、再び都へと向ける。

 町の入り口を、軍が固めている。その数は報告にあるボアジェク軍のほぼ全軍であった。その後ろに、セミディアルの大軍が見えている。

「‥‥‥何という事だ‥‥‥はめられたのは‥‥‥我々の方だ!‥‥‥ランダースめ!」

 遠眼鏡を地面に叩きつける。

 同じ頃、セミディアルの陣にも同じ文が届けられていた。

「‥‥‥新ボアジェクは、オストファーレン 軍と同盟を結んだ。我ら同盟軍の前に、少数である貴軍は為す術もなく、大敗するであろう‥‥‥貴軍の健闘を祈る‥‥‥ボアジェク騎士団長、ジュリオール」

 読み上げたワイアードは、書面を握り潰した。

「‥‥‥町の対面にオストファーレン軍が集結しているのは確かなのだな?」

「はい」

 ギルバートは言葉少なに首肯いた。

「‥‥‥城門を守るボアジェク兵はどの程度ですか?」

「物見の報告では、駐留軍のほぼ全軍だそうです」

 ワイアードはしばらく黙って何かを考えていた。

「町には二つの門がある。我が軍の駐留側にその全部を向けたという事は、反対側に置く必要が無いという事。オストファーレンと手を組んだという話は、まんざら嘘でも無い様ですね。撤退します」

「しかし‥‥‥動きが妙です。彼らは最初から我々と交戦する気はなかったのでは?」 

遠く離れた地にあるギルバートは、ジュリオ達の真意を知り得るはずもなかった。

 ここで彼を捕まえなければ、セミディアルの人間として救う道は永遠に閉ざされる事になるのである。


「仮にオストファーレンと手を結んだのであれば、その戦力的優位を活かしたはずです。

「と、言いますと?」

「私が彼らの立場なら、セミディアルの進軍途中において、奇襲をかけるか、または後方に伏兵を置き、通過した我々をボアジェクの守備兵と後背の軍とで挟撃していました。わざわざその有利を捨て去るのは不自 然です。ここはもう少し、様子を見るべきではないでしょうか?」

「あなたは、まだ分かっていない様ですね」

 ワイアードは舌打ちする。

「ボアジェク軍を率いているのは、あの腰抜けジュリオールなのですよ。彼は戦いが嫌いなのです。それで彼は、戦うよりも不戦勝の道を選んだだけです」

「‥‥‥」

「オストファーレン軍のあの位置からここまで、来るにはまだ時間がかかります。結果的にジュリオールの間抜けが我が軍を救った事になりますね」

「しかし‥‥‥」

「命令です。全軍撤退します」

「‥‥‥分かりました」

 ギルバートは頭を垂れたものの、ワイアードの言う事を信じてはいなかった。

 ジュリオは戦いが嫌いではあったが、間抜けではない‥‥‥その事を友人たるギルバートは熟知していたからであった。

 オストファーレンと同盟を組んだとは思えなかった。もしそんな事をすれば、同盟の名を借りた植民地化が進むだけであり、つまりは今回セミディアルがやろうとした事と同じ事になる。知っておきながらジュリオがそんな事をするはずもないのである。

「では、その旨、全軍に伝えます」

 が、ギルバートはそれ以上の事をワイアードには言わなかった。

「‥‥‥これから‥‥‥どうするつもりなんだ?」

 今は遠く離れた友人のいるであろう、町に向けて呟いた。




 オストファーレン、セミディアルの両軍はほぼ同時に撤退を開始し、その光景は、王都の民衆達を歓喜させた。

 歓声は演劇場を越え、都の全てに響いていく。祭りの為にと用意してあった紙ふぶきが一斉に撒かれ、空には花火が勢いのよい音を響かせた。

「‥‥‥我ら、貴族は、再びマリアンデール王女に忠誠を誓う者です」

 舞台に登った貴族達が一斉に膝をついた。その数はこの地のほぼ全員である。

「ありがとう‥‥‥」

 マリーは手を出す。その手に次々と忠誠の口付けがされていく。

 観客席から、ボアジェク万歳の声が、波となって押し寄せる。

「‥‥‥で、これからどうなされますか?」

 古参の貴族の一人が顔をあげた。

「ただちに両国に向けて、再び永世中立宣言します」

「‥‥‥しかし、受入れるでしょうか?」

「大丈夫です」

 確認する様に、ジュリオに顔を向ける。ジュリオは大きく肯いた。

「互いに背後に敵国の存在を意識していますから、交渉は簡単です。その為にも、早めに行動した方がいいです」

 マリーが自分で考えた台詞に、ジュリオはうんうんと何度もうなづく。

「では、我々は早速その準備にかかります」

 命令を遂行すべく、貴族達はその場から去っていった。

「‥‥結局‥‥全部、元どおりって訳なんだよね‥‥‥」

 ジュリオは頭をかいて、マリーの前に立った。

「‥‥‥名残り惜しいけど‥‥‥そろそろ俺は行くよ‥‥」

「‥‥止める事は‥‥出来ないのね」

「こんな騒がしい所は、俺の居場所じゃないから。これからまた忙しくなるだろうしね」

「‥‥‥」

 マリーは大きく息を吸い込んだだけで、表情を変えなかった。

「‥‥‥ちょっとこっちに‥‥‥」

「ん?」

 ジュリオの手を掴んで、舞台の裏口から物陰に回った。

「最後に一つだけ‥‥‥どうか‥‥」

「‥‥‥」

 マリーはジュリオの頬に手を回した。そのまま手前に顔を引き寄せる。

「ガキが生意気やるんじゃないって‥‥‥決心が鈍るだろうが」

「‥‥ん‥‥‥」

「‥‥‥」

 外の喧騒から少しだけ切り離された舞台の袖で、二人は初めての口付けを交わした。




 結局ジュリオは、セミディアルに戻る事は出来なかった。しばらくしてボアジェク領内の片田舎に『赤毛の何でも屋』という小さな店を開いた。

「はい、いらっしゃい」

「雨漏りがするので、屋根をなおしてもらいたいのじゃが‥‥‥」

「はいはい、お安いご用ですよ」

 特に繁盛しているという訳ではなかったが、かと言って生活に困る程でもなく、ジュリオは空いた時間のほとんどを惰眠に費やしていた。

 そうして二年程、経ったある日の事。

 ”こんばんわ”

「んー‥‥‥今、留守ー」

 庭のハンモックで午後の昼寝にいそしんでいたジュリオは、店から聞こえてきた客の声に、そう答えた。

 ”誰が留守だって?

「ん?、うわっ!」

 突然耳元で声が響き、驚いたジュリオはハンモックから落ちて腰をうった。

「痛たたた‥‥‥あれ!」

 立っていた男女を見て、また驚く。

「クレア!‥‥‥それにギルバート!」

「久しぶりだな、会うのは結婚式以来か」

「ああ、全くだ!」

 笑って二人と握手する。

「まあまあ、上がってくれよ」

 居間の脇にある箱を開ける。中からひんやりとした空気が流れてきたが、これは近くの冷たい井戸水を利用して作った保冷箱である。

「クレア、随分、お腹大きくなったな」

「そろそろ四ヶ月になるかな」

「こりゃ、双子‥‥‥いや三つ子かな」

「そんなに増えたら大変だよ」

 ギルバートは困った様に笑った。

「栄えあるセミディアル騎士団長様が、何言ってんだよ‥‥それで、わざわざ俺に会いに?」

「んー、まあな‥‥‥ちょっと用があって、そのついでと言えば、ついでで‥‥‥明日は何か遠出をする用とかあるのか?」

「いや、特に無いけど」

「な、なら、いいんだ」

「?」

 ギルバートはごにょごにょと言い澱み、クレアの顔を見た。クレアは首を横に振った。

「?‥‥‥まあ、何だか知らないけど‥‥ゆ っくりしとけよ」

 ギルバート夫妻は、その日はジュリオの家に泊り、翌朝早くに発っていった。

「ふわあああああっ‥‥‥」

 遅くまで付き合って起きていたジュリオは、村中に聞こえる様な大あくびをする。

「駄目だな‥‥無理をしないのがモットー‥ 今日は休み、休み‥‥‥」

 閉店の看板を出して、二度寝の準備に入る。入り口に泥棒避けの飛び出す球を設置してから、奥の寝室でばったりと横になった。

 すぐに眠りにつき、寝息をたて始める。

 ”‥‥‥起きてー‥‥”

「‥‥んー‥」

 誰かに体を揺さぶられ、ジュリオは寝返りをうった。

 ”起きて下さい”

 それは何処かで聞いた事のある様な、女性の声であった。

「‥‥‥誰なんだよ」

 ゆっくりと目を開ける。

 ”‥‥ふふ‥”

 長い金色の髪の少女が、恥ずかしそうに笑っている。

「誰だったかな‥‥‥」

 確かに見覚えはあったが、すぐには思い出せなかった。

 ”‥‥あれからちょっとだけ背と、髪が伸びたから‥‥‥これで理想通りでしょ?”

「‥‥‥」

 少しだけ大人になった少女は、はにかみながら、ジュリオをじっと見つめた。

「‥‥‥やられた」

 ジュリオは横になったまま、両手を伸ばす。少女は上から顔を近づけた。そして頬に軽くキスしてから、赤い顔のまま、小さな声で呟く。


 ”おはようございます‥‥私の勇者様‥‥” 



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