「‥‥‥ふう‥‥腰が抜けた‥」
ジュリオは額の汗を拭った。
「だけど、何とか、やり過ごしたみたいだな」
ひっくり返された鞄を拾いあげ、付いた泥を手ではらった。
「何だ?、あんな大口叩いておいて情けない の」
「あのな‥‥‥誰の為にこんな危ない思いを したと思ってるんだよ。このまま俺一人で 逃げても良かったんだぜ」
マリーは妙に神妙な顔付きになった。
「あ、あり‥‥あり‥‥‥‥」
「‥‥‥ん?」
「あり‥‥‥ありがとう‥‥」
「い、いや‥‥‥そういうふうに言われると、 どうも調子狂うんだよな」
困ったジュリオは頭をかく。
「‥‥‥本当に何もいらぬのか?、何でも言 ってよいぞ」
「て、言われてもな‥‥‥」
「このままでは私の気が済まぬ!」
「‥‥‥あー、分かったって」
鞄の中に手を入れる。
「じゃ、これでももらっとく」
取り出したのは、一番小さな熊の縫いぐるみだった。
「‥‥‥本当にそんなのでよいのか?」
「いいんじゃない」
ジュリオは懐にその縫いぐるみを入れて、顔だけを外に出した。
「‥‥‥盗賊に取られた事にでもしとくさ。 でもな、これ一個じゃ変か‥‥‥」
「?」
「さて、帰るとするか」
よっこいしょと声を出して、鞄を持ち上げる。
それからとぼとぼと歩き始める。
「のうジュリオ‥‥‥」
「ん?」
「お前‥‥‥本当に剣も馬も使えないのか?」
「使えない。どっちも養成所始まって以来の へたくそでね」
「‥‥情けないのー‥‥‥これから稽古に励 む様に」
「練習しても無駄だと思うけどね。それに俺 は面倒臭い事、嫌い」
「騎士‥‥‥本当に嫌っておるのじゃな」
「そういう事」
ようやく迎賓館の赤い屋根が見え始めた。 部屋に荷物を置いてから、夕食の準備が終わるまで、二人はまた館の周囲を囲むテラスに出た。既に一番星が空に出ている。
「実は、五日に誕生日なのだ」
「それは聞いてる。調印式の前の日なんだっ てな。何やら盛大に準備をすすめてるみた いだぜ」
「‥‥‥そうなのか。では、もちろんジュリ オも出席するのじゃろうな」
「まあ、出ざるをえないだろうな」
柵に寄りかかり、星空を見上げてため息をつく。
「‥‥何だか、すっごく嫌そうな顔じゃな」
「そりゃそうさ、式なんて面倒なだけだから な。ここの入学式だってすっぽかしたくら いだ。しっかし誕生会ね」
「これでやっと私も十一歳になる」
「何がやっとだか‥‥‥ガキが一つ上のガキ になっただけじゃないか」
「何だと!」
「ぐふっ!」
飛び膝蹴りを腹に食らったジュリオは、仰向けに倒れた。
ボアジェクとの同盟大使である王女、マリアンデールの十一歳の誕生会を翌日に控え、会場となる迎賓館の大広間は、その準備の為に大勢の人がひっきりなしに行き来している。
「よおジュリオ!」
「んー!」
久しぶりに会った、ギルバートと、ジュリオはパンと手を合わせた。
「何だ、お前らまで借り出されてたのか?」
ギルバートだけではなく、そこら中に見知った顔があった。
「一応、俺達も騎士見習いの身分だからな」
「雑用は下っぱの仕事、世の常なりってか。 しかし将来の騎士殿が床の雑巾がけとは」
「お前の方はどうなんだ?、一応、お前は同 期の出世頭なんだからな」
「出世頭ぁ?、冗談!」
はっはっと笑い飛ばして、手摺りをこする。
「笑い事じゃない。今は静かになったけど、 あの落ちこぼれジュリオが騎士一番乗りっ て、大変な騒ぎだったんだぞ」
「俺にとっちゃ、ただの笑い事さ。こうして ど派手なボアジェクの服を着ていられるの もあと三日程‥‥‥明後日の証印式が終わ れば、また落ちこぼれの見習い騎士、ジュリオールだってのにさ」
息をはいてから先端部をキュっキュっとこする。曲面に潰れた自分の顔が写り、ジュリオはニっと笑った。
「じゃあ、あの姫さまについてボアジェクに は行かないのか?」
「行ったら、ほんとに騎士になっちまうかも しれないだろ。近々祭があるらしいんで、 それぐらいは行くかもしれないけどね。と にかく、俺は面倒な事は嫌いなの」
「せっかくのチャンスをもったいないな」
「そんなによければ代わってやろうか?」
「‥‥好かれているのはお前で、俺じゃない」
「冗談の通じない奴だな」
会場の大掃除が一段落した後、買い出し係と飾り付け係に別れた。
「‥‥‥さて」
今はセミディアルの人間ではないジュリオは、そんな作業に加わらなければならない義理は無かった。掃除を手伝っていたのは、ギルバートに無理やり引きずり込まれたからである。
そのギルバートも買い出しに出かけてしまい、マリーの夕食までまだ時間もある。一人になって改めて暇な時間か出来た。
「‥‥‥皆には悪いけど、部屋で昼寝でもし てるかな」
上機嫌で口笛を吹き、迎賓館内に与えられた豪華なベットルームに向かう。
「‥‥‥ん?」
途中、廊下が騒がしい事に気づき、ジュリオは用事の無い廊下に足を向けた。
向こうからゆっくりと歩いてくるのは、執政官とその副官達だった。
セミディアルでは国王を補佐する為、毎年その任にあたる四人の執政官が王によって任命される。国の実務を引き受ける彼らはいづれも多忙で、王都でもない場所にまとまっているのは稀な事であった。
”ジュリオール!”
「やっば、見つかっちまった」
この養成所と砦の最高責任者であるクライスもその一人である。
ジュリオは、その十人程の集団に向けて敬礼した。
「ほう、その赤い服はボアジェクのもの‥‥ ‥‥‥‥襟章から察するに‥‥‥貴公は‥ ‥‥ボアジェクの騎士かな?」
黒いロープを羽織った腰の曲がった白髪の老人は、たどたどしい口調でそう尋ねてきた。クライス以外の執政官とは初対面であり、ジュリオの素性を知らない彼の質問は最もな事であった。
「はい、そういう事に‥‥‥なっていますが ね」
「そうかそうか‥‥‥まだ若いのに騎士の称 号を得るとは、貴公はよほどに優秀であっ たのだろうな。うむ、感心、感心」
その執政官は、言葉の終わりにごほこほと咽せ、副官に背中をさすられた。
「いや、エルマール殿、そうではあるまい」 ベレー帽を斜めにかぶったその執政官は、ブライアンの前の騎士団長、ツーロックである。大柄で、頭一つ以上背が高い。ジュリオをボアジェクの人間だと思い込んでいる様で、露骨に嫌味な態度をとってきた。
「ボアジェクは兵役への志望者が少ないと聞 く。少ない希望者の中からさらに騎士を選 んでいく訳だから、それだけ優秀な人材も 乏しくなるのは道理であろう」
「お言葉ですが閣下」
ジュリオが言葉を差し挟む。
「ツーロック閣下は実情をご存じない様です」「ん?」
「例えば、人の人数で比較すれば、セミディ アルはボアジェクの四倍以上になります。 しかし、仕官した人数はセミディアルはボ アジェクの倍程度にしかなりません。密度 で言うなら‥‥‥」
「ジュリオール、もう下がりなさい」
クライスが手を振る。
「はい」
ジュリオは小さく肩をすくめて後ろに下がった。かなり離れた所まで歩いたが、それでも、わめき声の様なものが聞こえてきた。
「いけない、いけない‥‥‥どうして俺は一言多いんだ」
ため息をついて頭を振る。
「しっかし、あれで執政官とはね‥地位以前 に、人間としての品性を疑うよ」
大理石の廊下を踏みしめる自分の足を見つめているうちに、上に立つ人間に必要な資質というものに、自然、思いを馳せていた。
「人を引き付ける人格‥‥‥誰とでも平等に 接する忍耐力‥‥きりがないな‥‥‥ギル バートの奴なんか、いかにもそれむきなん だよな。そういえば、あいつはどうなんだ ろう‥‥‥」
自室に向かうつもりが、気づけばマリーの部屋の前にいた。
「よっ、そんな所で何してるんだ?」
マリーはテラスに出て、縁に頬杖をついていた。
「ジュリオ‥‥‥」
「毎日毎日、買物と見物三昧‥‥‥さすがに 遊び疲れたんじゃないか?」
「‥‥別に‥‥‥そういう訳ではないぞ‥」
マリーは目線を外して、窓から広がる景色に顔を戻した。
「ま、いいけど‥‥‥明日はマリーが主役な んだ。ゆっくり休むんだな」
「ジュリオ」
「ん?」
部屋を出ていこうとしたジュリオは、後ろから呼び止められた。
「私が到着して本当にもう一週間経ったのか? ‥‥‥何だかだまされてでもいる様な‥‥ 気がする。あっと言う間だった」
「そうか?、ここに動かぬ証拠があるんだが な」
ジュリオはにやと笑って、腕をまくった。 手には小さな歯形があちこちに残っている。
「そ、それは‥‥‥」
「ったくー、どうしてくれるんだよ。誰かに 見られても説明しようがないじゃないか」
「‥‥怒っておるか?」
「あきれてる。ボアジェクの姫は、こんなんだとはね」
「‥‥‥」
マリーはうつむき加減にジュリオの顔を見つめた。
「お前は不思議な男だな。お前といると心が休まる」
「‥‥‥」
「‥‥‥騎士としてボアジェクに移る気はな いのか?」
「俺がボアジェクに仕えるのは、同盟が結ば れるまでの間‥‥‥その約束だろ」
「それは‥‥‥そうだが‥‥‥」
「て、事で俺はセミディアルの落ちこぼれ‥ ‥‥半年以内に首になって、堅苦しいこんな所とはおさらばする予定なんだからな」
「‥‥‥そうか」
マリーはそれきり黙ってしまい、ジュリオも肩をすくめて外に出た。
「‥‥‥もうすぐ夏もおしまいだな‥‥‥」
窓の外に広がる林を見てふと呟く。あれほどまでに青々とした木々の葉に、そろそろ茶色いものが混じりはじめていた。