自身の力で治癒された体は、飲まず食わずの寝たきりで体力こそ落ちていたものの、それ以外は健やかになっている。
特に心の丈夫さは、気取られないように気をつけなければならないほど、すこぶる頑丈で前向きである。
だが、それを知るのは、ヴィクトリアに仕えてきたナタリーくらいのものだ。
だからこそヴィクトリアは起き上がれるようになると、さっそくナタリーに命じた。
「わたくしにも思うことはあるけれど……とりあえず、伏せっていた間に汚れた髪と体を洗い流したいわ。ナタリー、入浴の支度を」
「かしこまりました、お嬢様。季節の薔薇を用いた花湯にさせて頂きます」
意識不明の間、髪の手入れも体を拭くこともナタリーが毎日欠かさずにやってはいたが、やはり入浴出来ずにいれば蓄積する汚れがある。
まず食事よりも、滑らかな髪と艶やかな肌を取り戻したいと思うヴィクトリアの美意識は、自身への自己愛から育ったものだ。
──それに、栄養を摂るより身綺麗にしておかなくては、いつ王太子殿下が来訪するか分からないもの。やつれていても構わないの、でも不潔な私は駄目よ。
王太子にとって、儚くも美しいのが自分だと認識するからこそ、そこからは外れない。
──王太子殿下には、まだまだ働いてもらうから。
王太子の利用価値は大きい。そこに見返りが求められることも、望む未来のためなら受け入れる。
ヴィクトリアは生と死の狭間にいたことで、広い見地を得た。世界情勢は細やかに把握してある。各地の争いの火種が何かも、もちろん理解は及んでいる。
こうしたものは、今後の様々な活動に役立てる──外交も含めて。
「──お支度が整いました」
「ええ、立つのを手伝って」
「お支え致します。肩にお手を」
ナタリーの肩を借りて浴室に行くと、浴槽から香る温められた秋薔薇の芳香が鼻腔をくすぐった。
「……やはり体を整える時間というものは心地いいわ」
「それはようございました。──私どもで洗わせて頂きます」
入浴補助のメイドたちにより磨きあげられたヴィクトリアは、腹黒い心のうちと反比例して美しさを増した。
寝ていた間に体の肉が落ちて、よりほっそりとした顔つきや体つきは壊れもののような繊細さを備えている。これならば王太子も庇護欲に駆られて、骨抜きになるだろう。
その王太子がようやく公爵家からの許しを得て、ヴィクトリアの見舞いに来られたのは、それから五日後のことだった。
何しろ意識不明の間も、目覚めてからも思うようにならずに、じれじれと焦がれてきた。
「公女、こんなにも痩せて……苦しく恐ろしい思いをしたことだろう。今は食事も摂れているのか?」
開口一番に気遣う王太子の言葉に、ヴィクトリアは見事な仮面を被ってのけた。
「わたくしは……己が害されそうになったことも恐ろしくは存じますが……もし本来の標的が王太子殿下だったのだと致しましたら……そう考えると、恐ろしさに震えが止まりません……」
そんなことを言われては、王太子も恋焦がれていた分なおさら想いが募るばかりだ。
──こんなにも、いじらしい令嬢を……よくも害そうなどと考えてくれたものだ。決して許さぬ。
ヴィクトリアは俯いていた顔を打たれたように上げて、切々と訴えた。
「まだ犯人は断定出来ておりませんこと、聞き及んでございます。これでは、わたくし……離れて暮らされておいでの王太子殿下の御身に何かございましたら……悔やむ心のあまり……どうか、尊い命のためにも断固として搜索を行なって下さいませ……」
「公女、気をしっかり持っていてくれ。私のことより、危険な目に遭った公女こそ心配されるべきなのに、あなたは……そのように私を案ずるか……」
テーブル越しに身を乗り出した王太子の距離が近いが、これも打算してのこと。まったく、その場その場で己の使い方に長けているのがヴィクトリアという恐ろしい人物。
「──分かった。これまで、尻尾を掴もうと監視下に置いていたが……王命を拝して、大規模な搜索に出よう。証拠を見つけて捕らえてみせる」
「ありがたく存じますわ……陛下にまで願い出て頂けるとは、殿下が頼もしく心強く思われます……」
礼を口にして、ヴィクトリアはほのかに目元を笑みで緩めた。
──抱き寄せたい。抱きしめたい。濃密な長い睫毛に飾られた瞼に口づけたいくらいだ。……いや、純潔の乙女である可憐な公女に不埒な振る舞いをするわけにはいかない。だがどうしても愛おしい。
王太子殿下は見事に身悶え、繰り返し約束して、出された紅茶が冷める頃に部屋を去っていった。
王宮に戻れば、起こす行動は決まっている。さっそく謁見した国王陛下も、ここしばらくの王太子を見ていたから、第二王子への憂慮は心にしこりを残すが、否やはない。
「──第二王子の私室と、ナレステア子爵家内部をくまなく搜索させろ。怪しいものは糸くず一本たりとも見逃すな」
恋に目覚めた王太子は猪突猛進だ。重々しくも高らかに命じて、岩のごとき決意を胸に多くの騎士たちを動かすことになる。
──さて、王命を受けた王太子によって、王宮と貴族の邸宅が一斉に大規模搜索されるなど異常な事態で、これはもちろん噂も飛び交うようになる……が、噂される当人たちは鳩が豆鉄砲を食らった状態に近い。
ひそひそと胡乱な目で囁かれながら、なりふり構わず喚いて抵抗し、恐慌状態に陥った。
「一体誰の許しを得て私の私室に勝手なまねをしている?!このような乱暴を働いて、お前たち、ただで済むと思うか!」
「──王命を受けた王太子殿下によるご指示でございます。お相手が第二王子殿下でございましても、容赦なくとの仰せですので」
部屋で腐っていた第二王子が大勢に押しかけられたことで、まさか公女に人を差し向けたことが露見したかと焦って騒ぎ立てると、かたやナレステア子爵家でもアレキサンドリアのみならず、彼女の両親もが悲鳴を上げる。
「あなた、王宮から搜索に応じろと騎士たちが押し寄せてきましたわ!ああ、何てことなの、ナレステア子爵家が取り潰されでもしたら……」
「──アレキサンドリア、これはどういうことだ!お前、まさか王家や公女様に何か良からぬことを企てたのか?!」
「私は知らない!お父様、お母様、私は何にもしてないの!──ちょっと、何してるのよ?!私の部屋を寄ってたかって荒らすなんて!」
「王命は絶対です。お従い頂きます。──おい、家具の裏や寝具の内側まで徹底的に調べろ!」
てんやわんやの大騒ぎが起きて、果たして王太子の元に隊長が報告に上がった。
「──王太子殿下にご報告申し上げます。ナレステア子爵令嬢の私室にありました宝石箱の奥より、乾燥させた草の破片が発見されました。これを調べれば、未遂事件に使用された毒草と一致するか判明致します」
「宝石箱か、令嬢の私物ならば他のものは手をつけまいし、人目に触れることもない。──その破片の特定を急げ」
破片は言うまでもなくヴィクトリアがガルタに仕込ませた。あの紅茶に使った毒草の破片である。
ガルタは、アレキサンドリアがお気に入りの宝石を外す際に、手伝うふうを装って、こっそり水で濡らした破片を貼り付け、気づかれないようにしながら宝石箱へと仕舞わせたのだ。
破片の正体は、実験によってすぐに判明した。
「ナレステア子爵家令嬢を重要参考人として連行せよ。貴族令嬢といえど特別扱いは無用、王宮の牢で尋問を行なえ」
「はい、ただちに」
物証を得た王太子は、さながら水を得た魚だ。こうなると忙しくなってしまうため、ヴィクトリアの様子を見に行くことも難しいほど忙しくなるが、これもヴィクトリアのためと懸命に己を奮い立たせて指揮を取る。
「なんで?!私は何も隠したりとかしてないわ!何が見つかって私が連れて行かれるの!私は、ただアスラン様のお心を拠り所にしていただけじゃない!」
「黙れ。気安く殿下の御名を口にして騒ぐな、この礼儀知らずが」
「あんた、私が誰だか分かって言ってるの?!アスラン様から愛されている唯一の令嬢である私を!」
ナレステア子爵令嬢が泣き叫びながら鉄馬車で連行される姿は、貴族に限らず平民も含めて、王都のものを大いに騒がせた。
サロンでもお茶会でも、もうこの話題でもちきりになるし、平民たちも雀のように噂を交わす。
共通するのは、ヴィクトリアへの同情とアレキサンドリアへの非難だ。
「まったく、私は第二王子殿下が目をかけるようになられた頃から苦々しく見てましたのよ。はしたなく第二王子殿下に寄り添って……公女様というお方がおりましたのに……公女様は今なお、伏せりがちにお過ごしだとか。おいたわしいこと」
「そうですわ、本当に。でも、これからは王太子殿下の時代でございますから、第二王子殿下もナレステア子爵令嬢も好きには出来ませんわよ。きっと正義の鉄槌が下されますわ!」
貴婦人や令嬢が口々に言えば、王都のあちこちからも平民たちが言い交わす。
「公女様は子爵令嬢に毒を盛られたらしいぞ!第二王子殿下を寝取った挙げ句に命まで奪おうなんて、稀代の悪女だ!」
「牢屋じゃ泣いてばっかりで尋問するにも話にならんらしいが、証拠が出てるからな!どうにもさ、令嬢だけで出来る犯行に思えなくないか?俺は第二王子殿下も一枚噛んでると思ってるぞ」
「確かになあ、あのろくでもない二人にとっては、輝かしい公女様の存在は目の上のたんこぶだろう」
もう二人に味方するものは皆無だ。皆が言いたい放題に叩いている。そんな噂の数々を人伝てに聞いているヴィクトリアは、さて愉快な展開になったと内心でほくそ笑んでいる。
だが、攻撃の手は緩めない。まだまだ痛めつけなければ二人の嘆きを心ゆくまで味わえない。
──二人の凋落を楽しむには、専用の水差しとか愛用しているカップみたいな日常で使われているものに自白剤の働きを付与して……二人同時にやらなければ。そして即効性は求めず、少しずつ心が蝕まれるように仕向けたいわね。
幸い、王太子から突然な来訪を受ける心配もない。ここで伸び伸びと手駒を動かせる。
──ナレステア子爵家はガルタと名乗らせている専属メイドが使えるからともかく、仮にも王家の王子の私物は持ち出せないわ。新しく得た力は、遠隔操作が出来ないようだし。
これは、意識を取り戻してから試して分かった。直接手に触れて念じなければ、力は入らないのが惜しまれる。
──何か……それならば、互いに相手が贈ってくれたと思わせられる、お揃いのカップあたりを送り込ませて……これなら小物だし見た目にも無害だから──いいじゃない、使えるわね。
閃いて、ヴィクトリアは思わず、私室のソファーでクッションを抱きしめた。
こんな歓喜の姿でも、はたから見れば憂いによると受けとめられるのだから、これはヴィクトリア主演の悲哀が籠もった舞台みたいなものだ。
実際には、陥れられているのはナレステア子爵令嬢と第二王子なのだが、いかんせん印象操作が大きく働いている。
──そうなれば、子爵家には令嬢の専属メイドを、第二王子には愚痴や惚気を聞かせている侯爵令息を呼び出して使いにするといい。令嬢は投獄されているけど、裏で権力を使えば差し入れは出来るし。令息には催眠作用のあるお茶でも飲ませれば、ことは済むもの。
ヴィクトリアは第二王子の行動をすっかり把握していた。友といえる存在が乏しいことも、婚約者として王宮に出入りしていれば見えてしまうから、弱みなど見つけたいだけ見つけられる。
「──ナタリー、内密に書簡を送る用意を」
「かしこまりました」
呼び出しの使いは、雇っている暗殺者から選べばいい。侯爵令息も第二王子の相手をしていた都合上、今ごろ困り果てているだろう。ヴィクトリアの魔の手は救いの手でもある。
二日後、令息がおずおずと訪れた。表向きは第二王子につき従い、ヴィクトリアを貶めたことへの謝罪である。
「──よくお越しになりました。まずはコーヒーで喉を潤して下さい」
「は、……はい……ありがたく……」
催眠作用のあるコーヒーは期待以上に良く効いてくれ、おかげで思い通りに令息を動かせることが出来た。
揃いのカップは公爵家の権力を借りたガルタの働きと、第二王子の友を装う侯爵令息の手によって二人に渡された。
二人は互いに互いを思って、涙しながらカップを抱きしめたらしい。間違いなく愛用してくれる。
──あとは、じわじわと弱って損なわれてゆく心のありようを観るのみ。薬効が回りきって堰が切れたら、とどめを刺す。
完膚なきまでにいたぶる標的に定められた二人は、元より常識的におかしいと後ろ指をさされていたが、やがて本格的に頭までおかしくなってきたと思われるようになる──それさえも、追い詰められた罪人だからと切り捨てられるまで、もはやそう遠くはない。