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第5話 公女、修道院へ

* * *


そして、ヴィクトリアが修道院へ赴く朝が訪れた。炊き出しは、この日を記念して当日の昼間から行なわれることになっている。


「ヴィクトリアお姉様……本当に行ってしまわれるのですか?」


涙声で問いかけるのは、妹のアーシェリーである。ヴィクトリアと同じ色の髪を波打たせている少女は、こぼれそうな丸い瞳を潤ませている。


「アリー、泣かないで。これはわたくしの心が決めたことでもあるのよ」


「ですが、あんまりです。お姉様は何も悪いことなどしておりません。全ては、あの愚鈍な王子と野蛮な令嬢が勝手に振る舞っていたせいです」


「アリー……あなたの気持ちは嬉しいわ。でもね、わたくしの精神が打ち負かされてはいないことも、分かっているでしょう?」


「それは……お姉様が挫けることなど、ありえませんもの」


ヴィクトリアは可愛い妹へ、慈愛に満ちた微笑みで頷いて見せた。


「そうよ、これはわたくしの終わりではないわ。始まりなのよ」


今のところ、順調に手駒を集めて、事を進められている。裏で手を回してきたから、第二王子に反感や異論を持つものも、だいぶ増えつつあるはずだ。


──汚れ役なんて、第二王子と浮気相手だけがなればいい。


ヴィクトリアは己のあらゆる美しさを見せつけるつもりだ。外見だけではない。表向きの心や生き方。


そして彼らには、誰も味方のいない苦痛とともに息絶える地獄を味わわせる。


しかし、そのために自分を働かせすぎるのは本意ではない。本気の復讐でも、労力を使いすぎてはならないのである。


これは例えば、架空の物語だとしても同じことだとヴィクトリアは考えている。


不本意な始まりや形からでも、信頼や愛情を得られた主人公が、さらなる試練や戦いに巻き込まれてゆくのは、主人公が前向きに努力して乗り越えても、度が過ぎれば主人公に対する労力の搾取だ、と。


散々働かせて、活躍譚だの冒険譚だのと作者に銘打たれても、主人公そのものは苦労の連続で大変な思いをしている。終わり良ければ全て良し、というのは欺瞞でしかない。


そんな健気で過労死しそうな主人公になるだなんて、真っ平御免なのだ。


「アリー、修道院では今までの分の休息だと思って楽しんでくるわね」


「ヴィクトリアお姉様……ええ、あの王子のせいで休みなく務めをなされてきましたものね」


「──ヴィクトリア、必要な荷物や物資は全て先に運ばせてある。修道院での生活に不自由な思いなど、公爵家の名にかけてさせはしない」


「お父様、ご配慮ありがとうございます」


「馬車も用意させた。新しい門出にふさわしいだろう」


「あら、お父様……あれは……」


美しい月毛の馬を揃えた八頭立ての豪奢な馬車は、公爵家でも家長以外のものが乗ることは滅多に許されない。


「ヴィクトリア、私の愛しい娘。惨めな思いをさせるものは、なんぴとたりとも許しはしないと両親から思われていることを、忘れないように」


「──はい、心に刻みますわ。では、行ってまいります」


ヴィクトリアが纏うドレスは、修道院へ行くとは思えないような絢爛さである。銀糸で細やかな刺繍を施した、渋い紫色の生地には同系色のチュールを添えていて、これから行くのはパーティーかと思わせる。


傷も曇りも許さないと言わんばかりの輝くパンプスも、ヒールが高くて踏まれたら穴が開きそうな雰囲気だ。


装いを女性の戦闘服のようにして、ヴィクトリアは愛着のある家に振り返りもせず旅立った。


──そして、同じ頃の王宮では、第二王子が相変わらず貴族令息を呼んで、とりとめなく語っていた。


「この国では女性なら誰でも当たり前のようにコルセットをきつく締めて、厳しい体重管理をする。しかし、サーシャはそんな貴族女性の枠にとらわれない。あの自由な体つきを初めて見たとき、私は目が覚める思いをしたんだ!」


「……なるほど……」


令息からすれば、奔放に食べて飲んで肥えた結果にしか見えないのだが。


決まりごとに縛られて生きる王族には、よほど新鮮に見えたのだろうか。それにしても、婚約者を蔑ろにして浮気に走る第二王子も大概奔放だといえる。


「その点、公女は完璧な令嬢だ。隙がなさすぎる」


──これ、褒めて貶してるよ。


令息は呆れながら黙って聞いていた。第二王子は沈黙を肯定と都合よく捉えて、さらに言い募る。


「公女は細い体なのに見合わない胸の豊かさがあるし、私がどれだけ仕事を押しつけても全て片付けるし、サーシャと睦まじくしていても嫉妬をあらわにしないし……まったく、可愛げがないだろう?あらゆることがサーシャとは正反対だ」


──これは、公女様の素晴らしさしか伝わってこないんだけど。


令息は相槌さえ打てずに、ひたすら立って聞いているしかない。


そこに、救いの手が現れた。急ぎの知らせを運んできた侍従である。


「畏れながら、殿下にお伝え致します。公女様が修道院へと入られましたようです」


この言葉に、第二王子は顔を輝かせた。


──が、そのために派手な改築まで行なわれたことを思い出し、公女というのは傲慢極まりないと苦々しい顔に変わる。


「──ならば、私からは、公女を厳しく勤めにあたらせるよう命じるのみだ」


「それは、公女様も世のため人のためとお考えでございましょう。──何しろ、修道院へ入られてすぐに炊き出しパーティーを開催されるほどでございます」


「炊き出し……パーティー?」


言葉の後半がおかしい。第二王子は怪訝そうな目で説明を求めた。


「殿下のお耳には届いておりませんでしたか?セイナダ伯爵夫人が王都にも王宮にも広めていたのですが……身分に関係のない炊き出しパーティーを、重税を課せられた民のためと、重責を負って生きる貴族のために大々的に開くと……公爵家が後援しておりますので、修道院では多くの人が集まっております」


「……あの、女っ……!」


──あ、殿下が暴走しそう。


王族として取り繕っていた外面をかなぐり捨てた第二王子は、もはや単なる癇癪を起こした男児にしか見えなかった──とは、後に語られることである。


「中止させろ!今すぐにだ!──ええい!私がやめさせる!すぐに馬車の用意を!」


こうして第二王子が鼻息を荒くして執務室から飛び出した頃、ヴィクトリアを迎え入れた修道院では、それはそれは活気に満ち溢れて、人々が食事やお茶に歓談を楽しんでいた。


何しろ、公爵家から派遣された料理人が腕を奮った品々だ。貴族の舌も喜ばせるほどのものだから、平民からすれば素晴らしいご馳走だった。


「このパン、表面は香ばしく焼けてるのに、中はしっとりして真っ白で柔らかい!こんなにバターを使った美味しいパン、初めて食べた!」


「シチューも体が芯から温まるねえ、何て優しくて美味しい味なんだろう。しかも野菜だけじゃなく、肉まで入ってるよ」


「平民の分のステーキは全部、一口大に切って焼いてくれてるんだな。食事用のナイフなんて使ったことがないから助かるよ。おかげでお貴族様と一緒の場でも、綺麗に食べられるし……うわ、何だこの柔らかくて旨味のある肉、世の中にはこんな美味い肉があったのか」


貴族も集まっているとのことで、はじめこそ戸惑っていた平民たちも、心尽くしの料理に喜んで幸せそうに食べている。


貴族たちも、そんな平民の笑顔を眺めながら「これこそが平和というものなのですね」と、にこやかな様子だ。


「皆さん、公女様の計らいにより、栄養に偏りのないよう、新鮮な野菜のサラダに果物もご用意されていますよ。ありがたく頂きましょう」


修道院のシスターが民衆に声をかけると、さらに笑顔の輪が広がった。


「普段、しなびた芋や野菜屑のスープが当たり前の俺たちが、まさかこんな手厚くもてなしてもらえるなんて……」


平民が感極まると、すかさず貴族が口添えしてくる。


「公女様は、心清らかな救国の聖女とも言えましょうね。──皆さま、同じように思われておいででしょう?」


すると、一斉に「もちろんですとも!」と声が上がった。


「こんなに心が開放されるような時間をすごせるなんて、公女様のお心配りには痛み入りますわね」


「そうですね。心地よい青空の下で、全てのものが幸福を味わえるように場を設けて下さったのですから」


もはや修道院のみならず、王都の中心に立つヴィクトリアである。


「喜んで頂けて何よりです。こうした催しを、これからは定期的に致しましょう。一度きりでは体も心も滋養に満たされませんもの。──では、わたくしはお部屋で少し休みます。皆さん、気兼ねなく、心ゆくまで楽しんで下さいませね」


全体を見回して、ヴィクトリアがにこやかに笑んでみせると、会場がわっと沸いた。


「公女様、このように大規模な炊き出しパーティーの準備でお疲れでございましょう。ごゆっくりお休み下さい」


「公女様は何て素晴らしい御方なんだ!俺らみたいな平民にも気遣ってくれて、こんな優しい貴族様は生まれて初めて会った!」


「こんなにも優れた御方を裏切って、浮気なぞなさる第二王子様は……」


「全く、人の心があるのか疑わしいとしか言いようがない」


「あんなにも輝かんばかりにお美しい御方に、一体何の不満があるというのか理解しかねるな」


ヴィクトリアを見送って始まるのは、当然ながら彼女を修道院へ送ったとなっている第二王子への不平不満だ。


──そこに闖入してきたのが、怒りに身を任せた第二王子当人である。


「ええい、皆のもの、散れ!この乱癡気騒ぎを今すぐやめて散らないか!──おい、あの憎たらしい女はどこにいる?!」


場違い感が強い叫び声には、誰ひとりとして従わない。自棄になりながら突き進むしかない。


「──この部屋か!およそ似つかわしくない贅沢な扉なぞつけおって!おい!」


第二王子が先触れもなしに荒々しくヴィクトリアの部屋に入ると、にわかには信じがたい光景が広がっていた。


何やら水を張ったガラスの壺に専用の器具が取りつけられ、そこに繋がっているパイプを、しどけなく横たわり優雅に吸っているヴィクトリアの姿がある。


ある意味、妖艶な姿ではあるがしかし、この場では異様すぎる。


「公女、お前は一体ここで何をしているんだ!」


「これでございますか?見ての通り水煙草です。これは息抜きに便利なものですね、煙がとても軽くて僅かですもの。おかげで喉を荒らさず、室内も汚さずに済みますわ」


「いや、仮にも成年前の貴族令嬢が煙草だと?!それ以前に、なぜ罪人に息抜きの道具が与えられているんだ!」


「まあ、お言葉ですが、わたくしは罪人としての判決が下されておりませんもの。ここでは賓客として遇されていますし……それに未成年であることを理由に責められるのでしたら、子爵令嬢もまた未成年の身でお酒を飲まれておいでだということも問われるべきになりますが」


いつ間にやら居住まいを正しているヴィクトリアの指摘は、どこまでも冷静沈着だ。


「うるさい!──とにかく、ここは修道院だぞ!」


「場を弁えずに怒鳴るとは、王家のものとして慎みが足りませんことと申し上げるしかございませんわね……わたくしは修道女ではないのですから、修道院の規則には縛られることなく生活するだけですの」


「なら、なぜ修道院に入ったんだ?!」


「──それは、お前が罪なき公女を貶めたからだろう」


第二王子が喚き散らすなか、低く落ち着いた声が制止に入った。


「公女、遅くなって済まない」


「いいえ、わざわざお運び下さり心より感謝申し上げます──王太子殿下」


「──兄上?!」


仰天して固まる第二王子をよそに、王太子──ウィルフォン殿下はヴィクトリアへ慈しむような笑みを向けた。


そう、私室に籠もっていたヴィクトリアへ書簡を送った王家の一員とは、他でもないウィルフォン王太子だったのだ。


「もはや弟の暴挙を看過しかねると思ったからね。──アスラン、お前は今すぐ王宮に戻り、王家の一員としての務めに専念しろ。言っておくが、これは王命だ。お前はこれまで、一度たりとも王家の務めを果たしていない。このことに陛下は憂慮され、また、お怒りでもある」


「なっ……!」


たとえ兄でも王太子でも、所詮は庶子だと見くびることで自己肯定してきた第二王子からすれば、これは屈辱だろうが、全て現実であり拒否は許されない。


憤りに身を震わせる第二王子をよそに、王太子はヴィクトリアの傍へ歩み寄り、彼女を労った。


「これまで、公女には苦労をかけた。弟に代わり、詫びと礼をさせてもらう」


「王太子殿下──わたくしならば、ただ己の為すべきことをと……それだけを肝に銘じて生きてまいりましたので……」


しおらしく言って俯き、切なそうに口もとへ手をあてるヴィクトリアの演技力は、なまなかに鍛えられたものではない。


──さて、まずは一つ目。次は第二王子から何を奪おうかしら?


「公女、常に気を張って生きていては、人の心の糸というものも切れてしまう。時には頼りなさい、そのために私が動くことにしたのだから」


王家はもはや、第二王子をいつでも切り捨てられる流れになった。


第二王子が頼れるのは、血筋のみである。


──それを吹き飛ばす醜聞を用意して差し上げなくては。


内心でこそ、くすくすと笑うヴィクトリアだが、王太子に対しては控えめで従順な態度を見せ、優しさに心を打たれた悲劇の令嬢として涙ぐんだ。


「王太子殿下……わたくしは……甘えなど許されぬ責を負っていると……それがわたくしを奮い立たせてまいりましたのに……お言葉があまりにもお優しくて……」


──立場も寄る辺も、全て奪わせて頂きましょう。鼻を潰し指を落とし、手足を折ってゆくようにして、人として生きられなくなるまで。


王太子という味方は大きな意味を持つ。使い道には注意が必要だし、旨みだけを頂くわけにもいかないが、ヴィクトリアが思い描く終幕には欠かせない。


「なっ……、こんな茶番が認められるか!兄上、その女は令嬢として許されがたい痴態を──」


「──連れて行け。醜い言葉は耳が腐る」


「はっ、かしこまりました。──殿下、失礼致します」


「何をする?!私を誰と心得るか!おい!──」


引き摺られて退場してゆく第二王子を、貴族も平民も等しく冷ややかに眺めていた。


──ああ、何て無様なこと!いいわ、もっと無惨に潰してあげましょうね!


アスランという男の面目が潰されるさまは、ヴィクトリアにとって何ものにもかえがたい快感であり、彼女は愉悦に身を震わせて──それを第三者は、第二王子に呪縛されてきた恐怖ゆえと痛ましく見るのであった。


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