「それはそうだよ、小野くん。だけどさ、時給が発生している以上、一定程度の労働を対価として提供すべきだよ」
「佐久間ちゃんは真面目だなあ」
「私は普通なの。小野くんが不真面目なだけ」
「そうかな?」
「そうだよ」
小野と佐久間の小競り合いが続く。何を言ってものれんに腕押しの小野に、佐久間はため息をついてレジへ戻ろうとする。小野はいたずらっ子のように思案し、佐久間の腕を甘えるように引っ張った。昨晩ベッドで塗った深紅のマニキュアが、蛍光灯に鈍く反射する。
「ねえ、佐久間ちゃん」
「きもい、触らないで」佐久間が眉をひそめて、小野の腕を軽く払う。
「僕、別れちゃったんだよね」小野は芝居がかった表情で目をふせて嘯く。
「どの人?」
「渋谷のポーカールームで出会った丸の内の証券マン」
「うわ、付き合ってることすら知らなかったかも。小野くん、男の新陳代謝が早いね。次から次に新しい過去が量産されてる」
「それって誉めてる? なぐさめてる?」小野は嫌そうに眉を寄せる。
「心の底から楽しんでる。自分とは全く異なる環境に小野くんは存在してるから、異世界の話を聞いているみたいで不思議で楽しい」
佐久間は小馬鹿にするように笑いながら、小野の隣の椅子に腰をかけた。彼女は小野の下家の席に深く腰かけ、小野の横顔を左からじっと見つめる。
彼女は小野の歴代の恋人の話に度々耳を傾け、笑いとばし、忘れた頃に次の話題に関心を示す。好奇心に溢れた気質を有していた。
「ひどいなあ、佐久間ちゃん。僕は必死に愛してくれる人を探して放浪しているのに」
「小野くんからは『愛されたい』しか聞いたことない。『心の底から愛したい』とか、人生で一度でも思ったことはあるの?」