「愛してるよ、小野ちゃん」
「うん、ボクも」
恋人の愛の言葉に、小野も同調する。
小野はロマンと純情が好きだ。少なくとも、物語のジャンルにおいて。この場において、せっかくだから小野も恋人の名前をささやこうと思った。けれど、とっさに名前が出てこず、諦めた。
いい年して、前の恋人と名前を呼び間違えるミスは避けたい。彼の興奮を冷めさせてしまえば、これから発生するはずの楽しいイベントがお預けになる可能性がある。それだけは避けたい。だって、小野の人生で一番幸福を感じられる時間はそれだけだから。
「ねー、そろそろはじめよう?」
小野はじれったそうに、恋人の唇を奪う。始まる前に雰囲気を盛り上げることが肝だと、これまでの経験上学んでいた。
「待ちきれないんだね」
恋人が頬を緩ませ、唾を飲む。小野はうつむき、大げさに照れたそぶりを見せた。
小野はあと半年経てば、この人の名前を忘れてしまうのだろうと思った。その半年後には顔も忘れる。けれど意外と、声だけは最後まで記憶に残る。わずかに掠れたこの甘い声を、自分の名前を愛しそうに何度も呼ぶこの声を、しばらく覚えていたいと小野は思った。
恋人が小野の身に付けているもの脱がせていく。暗い部屋の中、小野は適切な反応を続ける。
叶うのなら、彼にも自分との痴態を忘れずにいてほしい。この夜に見た自分の裸体を、反応を、においを、感触を、墓場まで持っていってほしい。口に出さずに、小野は思う。
例え今夜が最後になったとしても。
マンションの窓の外。真っ赤に光る東京タワーの電気がぷつりと切れ、都心の街並みに闇が灯る。