今日の夕方の終礼が終わった直後。
騒々しい教室の中で、席に座ってぼんやり黒板を眺めていた俺に向かって、前の席の宮瀬がそう言った。彼は片手でスマホを弄りながら振り返り、含みのある笑みを口元に浮かべていた。
「居残りして勉強するから、先に帰っていいよ。航大」
周りの生徒たちは、てきぱきと教科書や筆箱を鞄に詰め、足早に教室を後にしはじめる。
「テストは一ヶ月後だろ。勉強って何すんの」
「じゃあ倫理でもしようかな」
スマホに目を落としたまま、飄々とした態度で答える宮瀬は、相変わらず綺麗な顔をしている。
「絶対しない奴の言い訳じゃん」俺は縋るように友人の肩をつかんで、軽く揺さぶる。
「怖いんだ?」俺の言葉を無視し、片方の頬を上げた宮瀬は、からかうような俺に視線を向けた。「そろそろ慣れなよ。女の子だからって特別扱いしすぎ。相手は人間なんだから、とりあえず挨拶と相槌が出来れば大体オッケーでしょ」
銀縁の眼鏡を押し上げる宮瀬の指は細く長く、目元は大きくて切れ長。それでいて、身長も高くて足も長いし、金がかかってそうな緩い茶髪のパーマもしている。
社交的な性格の宮瀬は男女ともに知人が多いみたいで、廊下を並んで歩いていると、別のクラスの俺が知らない女子によく声をかけられている。愛想のよい声音を、余裕綽々に適当に受け流す様は、やっぱり心底羨ましい。
いや、羨ましかった。不特定多数の異性にモテてる状態っていいなって、ちょっと前まで思ってた。でも今は、ひとりだけに振り向いてほしいって、本気で心の底から思ってる。
「何話せば喜ばれるかとか、まだ全然分かんないし」
「分かるようになるまで会えばいいじゃん」
「でもさ」
「そもそも、女との時間に友達を連れてくるような自信のない男は、国も時代も関係なく普遍的にモテないよ」
不安げに食い下がる俺の様子を、宮瀬は眼鏡を拭きながら、目を細めて快活に笑う。鼻筋にうっすらと眼鏡の跡が残っている。
「そうかもしれないけど」
「デートの最少催行人数はふたり、最大催行人数もふたりだよ」
隣の席で顔を近づけて笑顔で語らうカップルに、宮瀬が意味ありげに視線を送る。俺も釣られて彼らを見る。
誰が見ても、彼らはふたりだけの世界に生きていた。
「そういう訳で、僕は教室で応援しているから。頑張ってね、航大」
宮瀬は姿勢よく席に座ったまま、にこやかに手を振る。俺はため息をついて立ち上がり、鞄を持って教室を出た。