薫の額から、冷や汗がじわりと流れ始める。俺も七川の一言に動揺して唇を震わせる。
「お互いのことが怖くなって、一緒にいるのに不安で仕方なくなる……そういう関係になっちゃうかもしれないって事だよ」
「よーするにお互い自己肯定感低いから『こんな自分なんて好きになれる訳がない』て色眼鏡があるのが原因だし、お互いを認識しあえたら良くはなると思う。せめて自覚した上でSMプレイか何かで落ち着いた方が良いんだよね」
おいおい、なんだか物騒な話になってきたぞ、俺達の関係!
俺と薫の顔が真っ青になっているのが見える。嫌だ! そんな精神おかしくなって壊れるなんて!
「先輩方の話は大袈裟……とは言えませんね。ある日を境に薫先輩が過呼吸になる回数が増えている気がしますし。表面的に対処してもまた問題が出ますよね」
「で、きょーかも頭木さんもどうする? 本人にうちらが関係のすり合わせしたところで、当の本人納得してないと意味ないし……」
「あーしらも遠回しに伝えても軽く受け流されるし、このまま黙って見とくのもねぇ。あーしが出来ることは深刻になる前にバイト先の知識使って何かしらのプレイで緩和するくらいか」
扉の向こうで三人が、俺達の今後をここまで真剣に考えてくれるのは有難い。だが、今自分たちの関係がそこまで歪んだものだと知った今はどうするのか悩んでいる。
やはり、俺の方で告白して関係をはっきりするか?
俺は薫の顔を見ると、不安げに俺の顔を見る。
「龍世。今のままじゃダメだは思うけど、どうしたらいいんだろう」
「今から告白する。いや、それだと……」
今の関係じゃダメだと分かっているが、七川の言う「本人が納得して告白」になるのかと考えて言葉が詰まる。あぁ、情けないな。
「……つまり、このまま放っておいたら、二人は変わらないままってことですよね?」
「そうなる可能性は高いね。頭木さん」
「だよねー。んで、お互い好きだと自覚してるのに“告白しない”まま関係続けるのが一番危ないパターン」
「……だったら私が」
少しの沈黙。頭木が静かに口を開いた。
「だったら、私がおふたりの噛ませ犬になったら良いんですよ」
俺が告白する準備をしようと決意した時に、頭木の一言が聞こえた。
一体、どういう意味だ?
「武岡先輩、薫先輩。おふたりにおは……なし」
頭木が病室のドアを開けて出てきたが、俺達が壁に耳を当てている姿をみて固まっていた。
「あの、おふたりとも壁越しに私たち三人の話を聞いていたんですか?」
「あ、あぁ。あまりにも三人とも遅かったから、つい」
俺が先に答えると、七川と太宰がぞろぞろとやってきた。
「なら話が早いね。ちなみに、どこから聞いているのかな?」
「えと、私と龍世が歪なカップルで危ういから、優菜が咬ませ犬になるって話だよね」
「だいたい全部聞いていたのね、二人とも。てことは、自分たちの関係はある程度分かってきたみたいだね」
七川の質問に、薫が気まずそうに答える。
「武岡龍世、桐生薫。今のままだと依存関係でいずれ破綻する。あーしらは部外者ではあるけど、友達だと思っている。だから、うちらがふたりの関係にとやかく言うのはお門違いかもしれない」
いつもはギャル語でお茶らけている太宰京香が、真面目に俺たちに語り掛ける。この場にいる全員が背筋を正して真剣に彼女の話を聞いている。
「勘違いしないで欲しいけど、二人を責めているわけでもないし、助けもしない。力を貸すことは出来るけど、最終的に二人で助かって欲しい」
この時の太宰京香は、ただのひょうひょうとしたギャルの同級生には見えなかった。歴戦の修羅場を潜り抜けた大人に見えた。俺と薫は、固唾を吞んでお互いの目を合わせてから、 太宰京香の顔を見る。
「その前に、頭木さんが話したいんだってさ。それを聞いてから、ふたりでどうするかゆっくりと決めてね」
七川はそう言って、太宰と共に病室から出ていく。しばらくの沈黙の後、頭木は頭を下げてこう言った。
「武岡先輩、薫先輩……私、おふたりの支えにならせてください」
「「は?」」
「私は、おふたりが大好きです。付き合いたいですが、二人の関係を壊したくないんです。ただ、そばにいられるだけでいいんです」
俺と薫は予想外な頭木の発言に対して目を丸くして驚く。
「まずは、薫先輩!」
「は、はい!」
「ご存知かと思いますが、改めて言わせてください。私は陸上部で純粋に走っている姿に憧れて陸上部に入りました!でもその憧れがいつしか恋愛感情に変わりました」
「そう……なんだね」
「最初は、陸上部のエースだから好きだと思ってました。でも、記録とかしがらみとかを気にせずに、今純粋に走っている先輩が好きになりました。今度は誰に何と言おうと薫先輩の事を支えます」
頭木の告白に、彼女は真っ直ぐな目で受け取る。
「次に、武岡先輩!」
「お、おう!」
「私、実はあの事件に偶然、居合わせていました。……片想いの先輩をお姫様抱っこして救急車へ連れて行く武岡先輩の姿に一目惚れしました」
「あの事件にいたのか」
「はい……。その時は、陸上部のゴタゴタで助けられなかった。だから一旦おふたりから離れて見守ってました。でも、おふたりと同じ高校に入学して『武岡先輩が薫先輩をDVしておもちゃにしてる』って噂を聞いた時は殺意を抱きました」
「だからあの時妙に薫に拘っていた。……というか、怖っ……!」
「でも、あの時薫先輩が過呼吸で運ばれた時の真剣な表情を見た時、『根拠もない噂』に振り回してふたりを信用しなかった自分に情けなかった。同時に……武岡先輩の事を惚れ直しました」
頭木の告白に対して俺は、周りにどう思われているのかが分かって恥ずかしく思った。そっか。俺の努力は無駄じゃなかったんだな。
「私は、ふたりと添い遂げたいですが、私が告白する事でふたりの関係を崩したくない。元々おふたりの人格が歪んだ原因は私たち陸上部の責任です。愛人としてふたりの側にいて一緒に支えたいです。償わせて下さい。付き合ってください」
俺と薫は、頭木の告白を受けて真剣に向き合う。
「まず、俺から話しても良いか?薫」
「ふふ、どうぞ」
しばらくの沈黙の後、俺は薫に断りを入れてから頭木の方に顔を向けて答えを言う。
「頭木の告白はとっても嬉しいんだけど、俺は好きな娘に夢中になっているからムリだな。申し訳ないが」
俺は一言言ってからチラッと薫の方へ視線を向ける。薫は頬を赤らめて目線を逸らす。
「ですよね……仕方ありません。分かってました」
頭木は、俺に振られる事が分かっているのか短く返事をする。しかし、分かっていても目には涙が溜まっていた。
「それに、仮に俺達が頭木の告白を受け取ったとしても、後で頭木は後悔するんじゃないかな。精神的にも肉体的にも頭木の負担になるから断るよ」
「……はい」
頭木は、俺に振られて短く返事をする。俺は言いたいことを言ったので、薫に視線を交わして合図する。
「じゃあ、私からも言うね。私も優奈の告白は嬉しいよ。でも、私も貴方と同じ好きな男の子に夢中なの。ごめんなさい」
「はは、分かってましたよ。武岡先輩が席を離した時に、いっつも武岡先輩の話をしてましたし」
「それと、優奈に感謝と謝罪しなきゃいけないことがあるの。最近七川さんやお母さんから聞いたけど、あの時匿名で私の義眼のお金を送ったの貴方だよね」
「……はい。ファンクラブのメンバーと一緒に募金を募りました」
「そのファンクラブも、事件を揉み消したかったコーチに脅されて解散したのよね。…… 私、何も知らずに優奈に酷いことをしてしまった。本当にごめんなさい。ありがとう」
「い、良いですよ……私たちが……勝手にやっている事ですから」
頭木は、薫の優しい謝罪と感謝で溜まっていた涙を流した。
「優奈、ちょっとこっちに座ろうか」
俺と薫は病室のベッドに座り、その間に頭木を座らせた。俺は何をするのか、何となく理解できた。
「優奈、本当にありがとう」
そう言って、薫はそっと頭木を抱きしめた。
「ずっと支えてくれたこと、忘れないよ」
頭木は驚いたように目を見開いたが、ゆっくりとその腕に身を預けた。
「……ふふ、こんな日が来るなんて」
「今まで、よくここまで頑張ってきたね。ありがとう。よしよし、偉いよ」
薫の腕の中にいる頭木は、小さく震えていた。憧れの先輩である薫は、丁寧に頭木の頭を撫でていた。
「武岡先輩、薫先輩……私、やっぱり諦められないです」
「優奈……」
「……頭木」
「だから、最後に……私の恋に区切りをつけさせてください。薫先輩、良いですか?」
「まぁ、貴方の恋に一区切り付くなら特別にいいよ」
そう言って、頭木は一歩近づき、俺の唇にそっと口づけた。
涙をこらえながら、それでも笑顔で。しばらくすると頭木の方から離れたが、俺と頭木の唾液で出来た糸は名残惜しそうに糸を引いて途切れた。
「はは、男の人と初めてキスをしましたが、手慣れている感じがして良いですね。身を委ねている私にとって安心しました」
頭木はそう言って空笑いに近い笑みを俺に向ける。もう、頭木の涙は乾いていた。
「これで、私の恋は終わりを迎えました。でもそれで二人とも言い訳はできませんよね?」
「ふふ、そうだね。優奈」
「頭木、ごめん。ありがとう」
「これからは先輩の恋を応援させてください。では、後はおふたりで行動してください。私が出来るのはここまで」
頭木は最後に、爽やかに笑って病室から出ていった。
「いっちゃったね」
「これで、二人きりになったわけだ」