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第26話 過呼吸

「それなら良いんだけど、全身鳥肌立ってない? 今部屋のエアコンの温度調節するから、薫はヨーグルトジュース飲んで水分補給してて」


 俺はエアコンのリモコンに手を伸ばして調節する。


「いつも、私の為に頑張ってくれてありがとう。龍世」

「お、おいおい。なんだよ、急に」


 薫は窓に写る大雨で濁った空を見上げて遠い目をする。

 薫の何かを諭した穏やかな表現に、俺は危機感を覚える。彼女が何処か遠くへいきそうで、俺は怖かった。


「……楽しいね、龍世。でも、幸せっていつも長く続かないから」


 多分、彼女の中で、大きな幸せの反動で大きな不幸がくると思っているのだろう。中学の頃の県大会優勝の絶頂期に、最悪の不幸があったから。


 薫は呼吸が浅くなっている事に気付いて、ヨーグルトジュースをのんで落ち着かせようとする。しかし、止まる気配はない。


「あの時みたいに……何かが壊れたら……私、また戻れなくなるかも……」

「おい、薫、大丈夫か?」

「はぁ、はぁ……ダメ、動悸が……」


 薫は胸を手で押さえて飲んでいたヨーグルトジュースを吐きこぼしてしまった。

 まずい、このままだと過呼吸になる! いつもの注射は俺の家に置いてきたからない!


 彼女の部屋を探せば良いが、そんな暇はない!くそ、どうすれば……! 落ち着け、俺……!


「呼吸を合わせれば……そうだ、人工呼吸と同じ……!」


 俺は一旦深呼吸し、過呼吸になりそうな彼女の髪の毛を掴み、強引にキスをした。

 俺は自分の舌を彼女の口をこじ開けて一生懸命に人工呼吸の要領で空気を送り込む。

 薫の顔を見ると、彼女の片目はカッと見開いていて戸惑っている様子だった。だが、 今度は、彼女は目を閉じて自分の舌と俺の舌を絡めて、両腕の力を抜く。俺は、過呼吸を治すための人工呼吸をするのを忘れてひたすら舌を絡めて抱き、彼女と息遣いと体温を感じる。


「ぶはぁ!!」


 お互いに息が出来なくなって思わず、両腕で払い除ける。


「り、龍世!? ……えと、過呼吸止めてくれてありがとう」

「お、おう。とりあえず止まって良かったな」


 お互いに目を合わさずに会話する。


「い、今のファーストキス……で良いんだよね?」

「そ、そうだな。ファースト……キスで良いんじゃないかな」


 彼女はしどろもどろになりながら俺に質問する


「さっきは変な事を言ってごめんね。なんか、さっきのキスでどうでも良くなっちゃった」

「き、気にするなよ。ゆっくり治していけばいいし。い、今のは皆には秘密にしようか」


 俺はゆっくりと立ち上がり、彼女の手を取ろうとした。


「かおるー、ただいまー。あたしのゲーム機今すぐに返して! あと、東京の御土産買ってき……た。……え、え? ええ?」


 薫の部屋の扉を開ける音がしたので、振り返ってみると台風でビチョ濡れの薫の姉が引きつった顔で突っ立っていた。


「えと、かおるに……龍世くん?」


 俺たちの様子をみた彼女の姉は、御土産のケーキの箱を落として口をあんぐりと開けて呆然と立ち尽くしていた。

 彼女の姉は薫の部屋を見渡す。脱ぎ散らかしているタンクトップとショートパンツ。出しっぱなしの薫の姉のゲーム機。


 先ほど彼女が吐いたヨーグルトジュースの白濁色の液体は、口元から足元のフローリングにかけて、ヨーグルトジュースが滴り落ちている。

 俺は私服で、薫は水着を着ている。

 この状況証拠だけで説得力が嫌な方向へ増している。


「あー。えっと、お邪魔だったかな。私」

「お姉ちゃん、帰ってたんだ。この台風の中」


 薫にとって姉が帰ってくるのが想定外らしく、みるみる薫の顔が青ざめていくのが見える。


「……ちょっと待って、これどういう状況?  水着、ジュース? 龍世くん……いや、まあ深くは聞かないけど」

「違う! 誤解だって!」

「ふーん……まあ、いいわ。お姉ちゃん何も見なかったことにするね」

「「ちょっと待て!」」


 俺と薫は、薫の姉に一生懸命状況説明をしてみるとなんとか理解してくれた。


「ま、まぁそういう事ね」

「薫のお姉ちゃんに理解してくれて良かったです」

「龍世くん、私の事お義姉さんって呼んでもいいのよ?」

「お姉ちゃん!」

「じゃあ、私は自分の部屋にいるからごゆっくり。あ、御土産のケーキがここにあるからふたりで食べてね! それと、あたしのゲーム機はキチンと除菌してから返してね」


 薫の姉はバタンと扉を閉めた。それを合図に、俺は掃除して片付けてから薫の姉が持ってきたケーキを分けて食べる。


「……今日は、ありがとう。龍世」

「おう、今日は楽しかったよ」


 俺たちはさっきのキスの余韻が残っていて、気恥ずかしい気持ちでいっぱいになった。そのせいか、お互い目を合わさないようにぎこちなく会話する。


「おかげで、今まで抱えていた過去のモヤモヤがどうでもよくなってきた」

「そ、それは良かった」


 ちらっと薫の顔をみると、頬を赤らめながらも片目は何か覚悟が決まったように真っ直ぐ前を見ている。


「私はね、過去に出来ていた事が出来なくなるのが怖かった。過去の自分よりも劣っててダメだと思ってた。でも、こんな自分でも幸せになってもいいって」


 俺は、彼女の話に相づちを打ちながら聞いた。


「もう、過去の事を振り返って落ち込むのを止めるよ。あの子の事を受け入れる。出来なくなったことよりも、今出来ることを増やそうって。私として生きていこうって思うんだ」


「良い調子じゃないか、俺も薫のそばにいて一緒に頑張ろうか。辛かったら一緒に休めばいいし」


 この時、お互いに目を合わせて見つめ合って笑った。これで、彼女のメンタルが安定してくれればいいし、あわよくば彼女と付き合えたらと俺は思った。


「今できることを、全力で楽しみたい」

「そうだな。まずは、次のハロウィンイベントのコスチュームを一緒に考えるか」

「そうだね。……あのナース、よく見たら結構セクシーでかっこいいよね」

「え?」

「ほら、せっかくアビサル・ミストプレイして楽しかったし、あのナースクリーチャーのコスプレしてみようかな」


 さっきまで、強化個体で怖がっていたのに、ここまで心境が変わるとは思わなかった。


「それに、あのナースってちょっと私に似てない?  まあ、龍世がどう思うかは置いといて」


 薫はニヤリと笑って俺をからかい始めるが、否定も肯定もしなかった。確かに、ホラーゲームのナースって良いよね。


「そろそろ、夕方になるし、俺は帰るよ」

「龍世、帰る前にちょっと待ってて」


 薫はクローゼットを開けると、奥から袋を取り出した。


「これ……?」

「県大会優勝したときのあの子のユニフォーム。ずっと探して失くしたと思ってたら、偶然掃除したときに見つけたの。でも……もういいかなって。私には必要ないし」

「薫……」

「だから龍世、これあげる。あの子の事を大切にしてね」

「え、俺に!?」

「私が前を向けるようになったのは、龍世のおかげだから」


 俺は彼女から貰ったユニフォームを大切に抱えて帰宅した。


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