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第18話 あの頃の薫

「最低だ……俺」


 俺は救急車の中で呟く。

 俺は拳をぎゅっと握る。


 薫の顔は苦しげに歪み、喉の奥から微かに漏れる喘ぎ声。それが、妙に色っぽく聞こえてしまった瞬間、俺の身体が熱くなった。


 ふざけんな。何を考えてるんだ、俺は。

 彼女は苦しんでるのに、そんなふうに感じるなんて、最低にも程がある。

 俺は彼女を守りたいはずなのに……それなのに。

 どうしようもなく、自分が気持ち悪かった。つくづく最低な野郎じゃねえか。

 それでも、今は俺がやるべきことをやらないといけない。


 俺がしっかりしなきゃ、誰が薫を助けるんだ。


「クソッ……っ!」


 自分の膝を思い切り握りしめる。

 そんなこと、考えてる場合じゃない。

 まずは、彼女を救わなきゃ……!


 周りを見渡すと、頭木はずっと俺の顔を見ている。救急車の車内が暗いせいか、俺の事を蔑んでいるように見えた。 


「頭木さん。確か『武岡先輩の力の支配下でしか生れない』とか『全身に痣が出来るほど武岡先輩に殴られて無理やり従わされている』と言ったな。薫の事を」


 頭木は無言で頷く。


「貴方……そんな事を」


 保健の先生は小さく呟く。


「見ての通りだ。そう思われても仕方のない事をしてしまった。頭木さんの言う事は正論だよ。……さっきは怒鳴ってしまって申し訳ない」


 俺は深々と頭を下げる。

 頭木は、拳をぎゅっと握ったまま、俺と薫を交互に見た。


「……まだ、納得はできません。でも、先輩の選択を否定する権利は私にはないですね」


 そう言うと、彼女は少しだけ目を伏せた。 


「ただ……本当に、先輩が幸せになれることを願っています」


 俺は何も言えず、ただ彼女の背中を見送った。 


「まぁ、陸上部中心に武岡と桐生さんの関係で噂が流れているのは知っているが、問い詰めるのはやり過ぎだ」


 保健の先生は頭木の行動について説教し始める。だが、俺は自責と後悔の念で頭に入ってこなかった。



 気がつくと、俺は病院の個室で眠っている薫の右手を握りしめて、項垂れていた。

 目の前の彼女の顔は穏やかで、静かに呼吸を繰り返している。それを見て、ようやく胸の奥に渦巻いていた不安が少しだけ和らぐのを感じた。


 しかし、さっきまでの記憶がぼんやりとして曖昧だ。

 頭木と保健の先生と一緒に救急車へ乗り込んだはずだが、いつの間にか姿を消している。俺はここで何をしていたんだ? 


 ぼんやりとした記憶を辿ると、どうやら医師の診察では大事には至らなかったらしい。


 ただ、薫が目を覚ますまで俺が付き添うことになった、と告げられた気がする。けれど、そこからここまでの記憶が、濃霧の中にいるみたいに曖昧だった。


 自分の指先が小さく震えていることに気付く。

 あの時、薫が倒れる瞬間のことが脳裏に焼き付いて離れない。


 どうにか助けようとした俺の声は届かず、彼女が崩れるように床に倒れ込む光景――それがずっと頭から離れない。

 今はただ、目の前の薫が目を覚ますまで、俺は何を考えればいいのか分からなかった。


「知らない天井……? りゅうせい?」


 薫は目を開けて小さく呟いた。


「ようやく、目が覚めたようだな」

「そっか。今病院にいるのか、私」


 俺は自分の耳を疑った。


「騒ぎを起こしたのは悪かった。ごめん」


 薫の声がワントーン低くなっていた。まるで、片目を失う前の彼女のようだ。


「良いよ、そのくらい安いもんだ。薫は大丈夫か?」

「大丈夫だ。所で、優奈と保健の先生は?」

「さっき学校へ戻ったよ。お前の容態をみて安心して俺が帰らせた」

「ふぅん。優奈にはすまなかったと伝えてくれ。あいつは私を追いかけていたからな」

「あぁ、伝えとくよ」


 薫の豹変ぶりに俺は驚いたが、何故か自然と会話していた。確か、心理的に短時間だけ素の性格が出る事があると心療内科の先生に聞いたことがある。認知症の親が死ぬ間際に息子の事を思い出すとか、屈強な軍人でも極限状態になると五歳児の子供みたいになるとか。


「頭木から伝言預かってる」

「伝言?」


 ベッドの上で身体を少しだけ動かす彼女に、俺は続ける。


「もう一度、陸上部に誘いたいってさ。ただし、今度は前みたいに押し付けるんじゃなくて、薫の意思をちゃんと確認したいって言ってたよ」


 彼女の表情を伺いながら、一呼吸置いて話を進める。


「あと、陸上部を見学するだけでもいいって。別に無理に戻るとかじゃなくて、雰囲気を感じてみてほしいらしい。もちろん、断ってもいいんだ。お前の意思次第だって、頭木も言ってたから」


「なら、断るよ」


 俺は彼女の即答に戸惑った。いや、昔の薫なら迷う事なくズバズバ言う子だったな。


「あの子はどうも、私に憧れてはいるけど理解しなかった。多分、あの頃みたいに走れば昔みたいになると思ってるんだろう。仮にメンタルが良くなっても、この目とこの胸が邪魔して足手まといになるのは目に見えてる」


 薫は気だるそうに眼帯と胸を指差す。


「りゅうせー。私は男子に混じって走ったり運動したりするのは好きだった。でも、あの頃、最後に楽しんで走った記憶なんて、もう思い出せない」


 ふと、彼女は遠くを見る。

 まるで、何かを思い出そうとして、でも、思い出せなくて諦めたような顔だった。


「……だから、戻らない」


 薫は、再び遠い目で夕日に染まった空を眺める。俺は、彼女の吐露に何も言えなかった。彼女はそんな事を思って、これまで過ごしていたのか。つくづく俺は薫の事を何も分かってなかったのか。


「もう、過去に戻りたくない」


 薫はそう言って、俺の両目をまっすぐ見た。 その目には、諦めと疲れがこもっていて濁り切っていた。


「それに私が彼女の側にいても、幻滅して駄目になるだけだ。優奈にはこんな私の事を忘れて、せめて『憧れの先輩』のまま記憶に留めて欲しい」


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