薫の顔は真っ赤にして怒っている様子だ。
「薫先輩……私」
「どうせ、龍世に私と別れて陸上部を復帰させろって迫ってたでしょ!」
頭木の弁明を、彼女の怒鳴り声でかき消される。頭木の顔は薫先輩の鬼形相に怯むが、それでも言い返す。
「……そうですが、今の先輩はおかしいですよ。陸上に戻ればもしかしたら」
「そんなのどうでもいい! またあんたの世話をしろって言いたいの?」
「ち、違います! ただ、薫先輩が元気になってほしくて」
「はぁ。見捨てたくせに都合が良い時に擦り寄るんだ」
薫の冷淡な言葉に、俺と頭木は青ざめる。こんなに彼女が怒ったのは随分久しぶりで、正直俺も怖くて動けなくなっていた。
「ほら、返すよ。これ」
薫は、財布の中から小さなお守りを頭木の方へ投げる。
「これ……私がプレゼントした必勝祈願のお守り」
薫から受け取った頭木はそう呟き震える。
「お前がやってる事は龍世の弱みに付け込んで私を手元に置きたいだけでしょ。何、楽しいの?」
「いや……それは。ですが、先輩方からお聞きしましたよ。全身に痣が出来るほど武岡先輩に殴られて無理やり従わされているって」
彼女は頭木の言葉に耳を傾けるがその表情は冷たい。
「でも、そんなわけないって思いたかったんです。私、ずっと信じてたんです。でも……」
「……おかしいね。私の肌が弱くて、痣ができやすい体質だって、あなたも知ってたはずなのに」
薫の眼光は、まるで彫刻刀の刃のように鋭く光り、頭木を射抜いた。
「あんなに一緒に練習してたのに、忘れたんだ? あんなに練習したのに? それとも忘れたふりなの?」
「……あ!! そうでしたね!」
「そうだよね。やっぱり、私にとって陸上部はそんなものだったんだ」
「え?」
「だから私は『上辺だけの薄情な陸上部』が嫌いなんだよ!」
「そ、そんな……つもりは。私は……今度こそ、先輩を助けたいんです」
先程、俺に正論を言っていた頭木の姿はなく、ただ憧れの先輩に説教された後輩と変わっていく。このあたりから、彼女の額に汗が流れて手が震えているのに気付いた。
「お、おい。薫」
俺は勇気を出して口で彼女に止まるよう伝えても止まる気配はない。だが、このままだと何か起きそうだ。薫の息遣いが急に荒くなった。肩が大きく上下し、目の焦点が合っていない。
「どうせ口だけでしょ? 私をエースだの憧れの先輩だの持ち上げるだけ持ち上げて、都合が悪くなったら捨てるんだ。良かったね、私を踏み台にして陸上部のエースになったんでしょ? スポーツ推薦でこの高校へ入学出来て」
薫の声には、怒りだけでなく、滲み出るような悔しさが混ざっていた。
頭木はその言葉を真正面から浴び、大粒の涙をこぼす。肩が震え、何かを言いかけては口をつぐむ。
その瞬間——。
薫の体がわずかにぐらりと揺れた。
片手で胸を押さえ、呼吸が浅くなる。唇が青ざめ、額には冷や汗が滲んでいる。
「お前らの様な奴が……いて、良いはずはないんだ」
「や、止めて下さい! も、もう許して下さい!」
彼女の罵声で頭木は全身を震わせて泣き始めた。
薫の表情が段々悪くなっていき、猫背になっていく。俺は、徐々に彼女に近付いて、いつ発作が起きても対応出来るように準備する。
「許す? 憧れの先輩だとくさい台詞で私を乗せておいて勝手な事を言っているんだ! 私から龍世を取り上げないで! 私が好きだった走ることも、友達と笑い合う時間も、全部あの時失った私には……もう、彼しか残っていないの!」
「薫! 落ち着け! 俺が連絡しなかったのが悪かった、本当に申し訳ない。だから、これ以上、お前がこんなふうに苦しむのは見たくない……!」
俺の勇気を出した一言で、今にも後輩に殴りかかりそうな彼女の歩みがピタリと止まった。
キーンコーンカーンコーン。キーンコーンカーンコーン。
昼休みが終わるチャイムがなり、しばらく三人は沈黙した。
「え……あの。龍世。ごご、ごめんなさい。気分が悪くなったよね。私のせいで。龍世、嫌いにならないで? 見捨てないで! 何でもするから!」
薫は、震える声で俺に懇願する。
だが、そのすぐ傍で、頭木は小さく身を縮こまらせていた。
顔を伏せ、視線を彷徨わせながら、震える膝を両手で押さえつけている。
それでも震えは止まらない。
「も、もう……もういいです……」
声は震え、目には涙が滲んでいた。
そんな頭木をよそに、薫は俺の方へゆっくりと歩み寄る。
だが、ゾンビのように体を揺らし、足元はおぼつかない。
「も、もう怒らないから、許して。もう、二度とこんな事しないから……。りゅう……せ」
手が震え、胸を押さえて床に崩れ落ちる。『息が……苦しい……』か細い声で呟く彼女の頬は、冷や汗で濡れていた。
「薫! おい、薫!」
名前を呼びながら彼女の肩を揺さぶるが、返事はない。息は浅く、全身がかすかに震えている。額には冷たい汗が滲んでいた。
「落ち着け……久しぶりだが、一度やっている」
俺は自分に言い聞かせて深呼吸する。自分の制服に忍ばせた専用の薬を取り出し、小さな筒状のケースを開く。中に収まった注射器を取り出した。
薬剤が光を反射するように透明なチューブの中で揺れる。
「大丈夫、これで少し楽になるから」
俺は彼女の腕を優しく掴み、注射器を押し当てた。針が皮膚を突き破る感触に一瞬ためらったが、迷っている時間はない。
「わ、私のせいで……こんな」
「おい、頭木! ちょっと肩を貸せ! 俺は片足捻挫しているから手伝ってくれ!」
頭木の呟きを無視して指示を出す。
「え、でも……」
「うるせぇ! 泣くなら後で出来るだろ。一旦保健室へ運んでから救急車呼ぶから手伝え! 早くしろ!」
俺は泣いている頭木の行動に思わず苛ついて思わず怒鳴ってしまった。後で振り返ってみるとこんな汚い言葉が出るのかと自分でも驚いた。俺は頭木の肩を掴んで、強引に薫を支えさせる。
こへ、駆け足でやってきた保健の先生が声を上げた。
「もう救急車呼んだ! あなたたち、すぐに薫さんを運んで!」
生の言葉に、頭木は目を見開くが、俺は今はそれどころじゃない。
「助かります、先生!」
「……たく、何の騒ぎかと思えば痴話喧嘩ね。あと担任と親御さんにも連絡したから」
俺と頭木、保健の先生の三人で彼女を運び出して救急車へ乗り込んだ。
救急車の中で、俺は薫の手を握りながら、俺はふと、彼女の口からこぼれた言葉が胸に刺さるのを感じた。「龍世だけが……」その続きを聞くことが怖いと思ったのは、俺自身の弱さのせいだ。