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第12話 悪夢去ってまた悪夢

 一昨日と昨日の出来事が頭から離れない。

 薫の顔。

 薫の声。

 薫の、手の温もり——そして。

 薫の、胸の感触にほんのりと刺激的な汗のにおい。


「うわあああああ!!!」


 俺はベッドの上でのたうち回った。


「……熱、測ってみるか」


 ピピピピッ。


「ちょっと、熱があるわね。今日は休んだ方が良いよ」

「母さん。今日は休むわけには行かないんだ」

「良いから、身体を休めた方が」

「でも」

「良いから休め」


 次の週の月曜日。三九度の高熱が出た俺を、母親が鬼の形相で止めた。


「多分、水分不足による熱中症だと思うなぁ。どうせ、薫ちゃんの事が気になるんでしょ?」

「うるせぇよ」

「図星ね。もしかして、キスしたとか?それともそれ以上のこと? さっきから右手をチラチラ気にしてるけど、もしかして」

「辞めろ。頭がガンガンするんだ」

「だったら休めや」


 こうして、今日は学校で薫に会うことなく学校を休むことになった。これ以上考えても答えは無さそうなので、親が買ってきてくれたバナナとポカリで食事を済ませて大人しく寝る事にした。

「……これが、恋の熱か」

 俺は目を閉じた。


「よぉ、りゅーせー。これどう責任取るつもりだった?」


 俺たちが通っていた中学校の教室と図工室へと繋がる階段の踊り場で、今の薫が片目から血を流して倒れている。よく見ると、俺の名前が入っている彫刻刀が薫の右目に刺さっている。小学校時代の薫が倒れて動かなくなった今の薫を指差す。小学四年生の薫は半袖短パンで髪型が今と違ってショートのボーイッシュでよく男子と間違えられていた。


「か、薫?」

「あーあ、いっけないんだー。見捨てたくせに都合が良い時に擦り寄るんだ」


 小四の薫は被っていた流星をあしらった真っ黒な野球帽を脱ぎ捨てて、俺を軽蔑の目で見上げる。


「薫。ごめん、あの時は」

「お前がやってる事はこいつの弱みに付け込んで人生を壊してんじゃん。何? 楽しいの?」


 小四の薫が、不気味な笑みを浮かべる。

 違う……違うって言いたいのに、言葉が出ない。


「でもお前、心のどこかで願っているんだろ?  私が『大丈夫』って言ってくれるのをさぁ」


  俺は息が詰まった。喉がひりつく。


「言ってやろうか? 『大丈夫だよ』って。……でもさ、許してほしいなら、その前にお前は何をするべき?」


 小四の薫はわざと『大丈夫だよ』の部分を可愛く甲高い声で強調し、俺をあざ笑う。


「どうした? 何か言ったらどうなんだ?」

「お、俺のせいじゃない。あの時は……」

「いいや。お前のせいで、私はずっと痛いんだよ。おかげでお前の事を忘れなくなったよ。良かったな」

「そんなつもりじゃ……」


 俺は必死に言い訳する。だが小四の薫は、ぐったりと倒れている今の高校二年の薫の右目に刺さった俺の彫刻刀を乱暴に引っこ抜く。


「ほら、返すよ。これ」


 小四の薫は血まみれの彫刻刀を俺に向けて放り投げる。受け取った彫刻刀の平刀の刃先には、乾いた薫の血の塊が柄の部分まで赤黒くこびりついている。生々しくて、こんなのはみたくないし、持っているだけで手が震えていた。


「どうせヤルんだろ? 私が止めてもお前は満足するまで、このおもちゃが壊れるまで弄んで、飽きたら捨てるんだ」


 小四の薫は、動かなくなった高二の薫の腹部を踏みつけて指を指す。


「お前の様な奴らがいて良いはずはないんだ」

「やめてくれ! 俺が悪かった。頼む、許してくれ」

「許す? 私の片目潰しといて何を勝手な事を言ってるんだ!だったら返せよ、私の右目を! 私が好きだった走ることも、友達と笑い合う時間も、全部あの時失ったんだよ! 私の人生を!」


 俺は叫ぼうとするが、喉がひりついて声が出ない。

 気づけば、俺の手が勝手に動いている。

 まるで何かに操られているみたいに——。

 彫刻刀を、自分の目に向けていた。


「頼む! 本当に許してくれ! 薫ぅうう!」

「ひゃい!!」


 俺は飛び起きた。

  喉がカラカラに渇いている。

 俺は勢いよく、ベッドから飛び起きてから両手を確認する。

 俺の右手にも左手にも血まみれの彫刻刀はなく、とりあえずホッとした。


「夢か……」 


 俺は小さく呟く。全身はまるでバケツ一杯の水をぶちまけられたかのように汗でびっちょりになっている。大粒の冷や汗が額から鼻、口、顎へと滴り落ちる。


「えっとぉ……龍世、大丈夫?」

「う、わぁああ!!」


 声のする方へ顔を向けると、心配そうな顔の薫がそこにいた。俺は思わずベッドから飛び起きて後ずさる。


「ええええ、えっと。落ち着いて! 龍世。わ、私だよ。桐生薫だよ」

「ゆ、夢……? じゃないよな。現実だよね」

「うん。どうしたの?ずっと譫言で私に謝ってたけど、怖い夢でも……見たの?」


 俺は周囲を見渡して、夢じゃない事を確認した俺は、ベッドに座って薫の顔をみる。よく見ると彼女は制服姿で、目に彫刻刀は刺さって無かった。とりあえず、あれは夢で良いんだよな。


「ん、ま、まぁ。それよりも学校は?」

「龍世が体調不良で休むって君のお母さんから聞いたから休んだの」

「そうか。なら良いんだけど」


 俺はそう言って、薫から受け取った新しいポカリをガブ飲みする。とりあえず、状況を整理するために周囲を改めて見渡す。

 壁時計をみると、とっくに五時限目が終わっている時間帯になっていた。


「さっきの質問だけど、どんな夢を見たの?」

「あ、いや、何というか。そんなに気になるか?」


 薫からさっき見た夢の質問をされたが、俺は答えづらくてはぐらかす。


「だって、さっきまで私にずっと謝ってたんだよ?……私何かしたのかな」

「……小四の頃のお前に説教された夢だよ」

「小学校の頃の私? もしかして、この目の事で?」

「あぁ。まぁそうだよ」


 薫は右目の眼帯を指指して質問し、俺は答える。夢の内容を覚えている範囲で全部話すと、薫は黙って聞いていた。


「だから、その。あの時はごめんなさい」


 俺は深々と頭を下げると、意外な言葉が出た。


「私は龍世に感謝してるの」


 俺はその言葉を聞いて、思わず息を呑んだ。


「私を助けてくれたのは龍世でしょ? そんなに自分を責めないで」


 俺は無意識に、彼女の眼帯をじっと見つめた。

 これまでは怖くて、ちゃんと見ることもできなかったのに——

 なんだろう、この感じ。

 少しだけ、胸の奥にこびりついていた罪悪感が薄れた気がした。

 薫は真剣な眼で俺を真っ直ぐ見つめる。右目の眼帯の蛇が俺を捉えているように見え、姿勢を正す。


「あの時って龍世が、救急車を呼んで私を助けたのも、人権擁護局に通報して学校を動かして問題解決したのも、弁護士をしている貴方のお母さんを紹介していじめっ子グループを提訴できたのも、みんなみんな龍世のおかげじゃない」


 彼女の残った眼には、涙が出ていた。


「いや、俺はたまたまだよ。偶然そういう繋がりがあっただけだよ」

「そんなこと言わないで。むしろ、私のせいで龍世が……こんなにも苦しい思いをしていたなんて……嫌いにならないで」

「お、お前の事嫌うわけないだろ! お、俺は」


 俺はお前の事が好きだ。たったその一言を言いたくても、喉に小魚の骨が刺さったみたいに発音できない。


「俺は……」

「『俺は』何?」

「俺は……へ、へ、ヘクシックシャン!」


 ぐぅうううー。

 俺が勇気を出して言おうとしたときに、俺のクシャミと腹の虫が同時に邪魔してきた。


「そ、そういえばお昼食べて無かったよね。それと、汗びっちょりで冷えてるでしょ?」

「そそそ、そういえばそうだな。さ、さっきから震えが」


 俺の身体が急に震え始め、鳥肌が立って空腹になる。びしょ濡れのパジャマはひんやりとしていて、腕をまくると鳥肌が立っていた。

「あ、あの。……その。そこに着替えをおばさんが用意しているから着替えてて。ご飯は台所にあるから私、その間取りに行く」


 薫がうしろを向いたのを確認してからパジャマの上を脱ぎ始めた。


「いつっっ!!」


 薫は俺の部屋の本棚の角に右胸を思いっきりぶつけて倒れ込む。


「か、薫?! ってうぉ!」


 俺はズボンの裾に足を取られ、そのまま勢いよくぶっ倒れた。

その下には、さっき胸をぶつけて転んだ薫。


「い、痛いよぉ……」


 俺は薫の上に完全に覆いかぶさっていた。

 パンイチのまま。

 ガチャ!


「薫ちゃーん、龍世、起きたかしら……て……え?」


 最悪のタイミングで、俺の母親がノックせずに扉を開けてやってきた。

 俺がゆっくりと見上げると、母親は俺の昼ご飯と二人分のお菓子をお盆に乗せたまま硬直していた。


「む。胸が……」


 薫が胸を押さえて身体をまるめ、絞り上げたか細い声を出す。

 ま、不味い。この状況を母親視点で見ると、俺が薫を乱暴して床へ思いっきり叩きつけて襲い掛っているように見える。

 薫の目は泣きつかれてまぶたも赤くなっていて、涙を流している。この状況証拠だけで説得力が嫌な方向へ増している。


「薫ちゃん。いえ、桐生薫さん。貴方に聞きたい事があります」

「り、龍世のお母さん?」


 俺の母親は真顔で薫を見下ろし、薫は俺の顔を見た後で不安げに俺の母親の顔を見上げる。


「私は貴方の姑としてコンドームを用意すれば良いのかしら?」

「あ、あの……龍世のお母さん?」

「それとも貴方の弁護士として今回の強姦未遂事件の提訴の手続きすれば良いのかしら?」

「お、おい。誤解だ! 母さん」

「黙りなさい。お前に聞いてない」


 俺は必死な顔で弁護士モードの母に弁明を求めるが、弁護士の一言で一蹴された。


「では、まず『強姦未遂罪』の刑法177条について説明するわね?」

「え、あの、そんなことしなくても!」

「まぁまぁ落ち着いて。知識は大事よ。たとえば、未遂の場合でも、刑法第四三条の規定により『強姦未遂』として処罰されるのよ?」

「いや、待って! 俺、未遂どころか何もしてないんだけど!?」

「じゃあ龍世、聞くけど」

「パンツ一丁で女の子に覆いかぶさって陰部を押し付けて、涙目にさせてたのは事実よね?」

「クソ……!」

「えっと、おばさん違いますって」

「ちなみに、龍世。裁判になった場合、龍世が有利になるポイントを教えてあげるわね」

「な、なんだよ」

「『合意の証拠』があれば、龍世は無罪になる可能性が高いの」

「合意ってなんだよ!」

「つまり、薫ちゃんが『私は合意の上でした!』って証言してくれれば、龍世はセーフ!」


「え、ええええ!?」

「お前なぁぁぁぁ!!」


「まぁでも、こういう案件は示談で解決するケースが多いわね」

「薫ちゃん、君が『龍世と結婚する』って誓約書を書けば、すべて解決するわよ?」


「「ふぁぁぁぁ!?」」


「では、同意がないと判断します。強姦未遂事件として処理しますね。ちょっとお父さん呼ぶから」

「ちちちち、違います! 誤解です! わ、私がここの角に右胸をぶつけて。胸の成長痛で!」

「では具体的に状況を説明してもらえますか? 薫さん」 


 彼女は慌てて俺を突き飛ばし、必死に俺の母親に事態の説明の言葉を一生懸命に並べ立てる。


「ま、まぁ。今回の件はそういう事で納得しておきましょう。薫さん。ここにお菓子とお茶を置くから、そのまま待っててね。龍世、着替えてご飯食べたら後でお話があります。その間に手を出さずに我慢して」


 俺の母親は真顔でそう言い残し、そそくさと扉をバタンと閉めてどこかへ行った。ここまでくると、頭が空っぽになって余計な事が考えられなくなる。


「薫、着替えるから後ろ向いてて」

「うん」


 俺は急いで着替えてから薫の横に並んで正座した。薫もそれにならって正座する。


「ご、ごめん。龍世、なんだか変な誤解させてしまって」

「い、いや。しょうがないよ。それよりも、胸、大丈夫か?」

「う、うん。それよりも、ご飯食べたら?」


 真顔になった俺は母親が用意したお盆から昼ご飯の入った皿とお箸を取り出して黙々と食べる。食べ終わった俺は薫になんて話しかければ良いのか分からず、ふたりで黙々と俺の漫画を読みながら母親を待っていた。

 その後、俺たちは母親から個別で呼び出された後で解散となった。


「はい、これ。今度から使うのよ」


 俺は母親からコンドーム三箱と性知識をまとめた本を手渡された。

 この時に言われた母親の言葉は一生忘れる事はないだろう。


「これから、薫ちゃんを絶対に幸せにしてくださいね。じゃないと、提訴するわよ?」

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