俺は、今も彼女の血の通っていない右目に見られている気がする。
小学校の頃から中学二年生の間。桐生薫の世界の半分を失う前は、とにかく明るくてボーイッシュな女の子だった。
「あ、りゅーせー! そこ泥はまるぞ! ほら、手貸してやるからさっさと上がれ!」
当時の彼女は、俺のような地味な存在にも気さくに手を差し伸べてくれる子だった。
「おーい! 何しけた顔してんだよ! ほら、一緒に昼飯食おうぜ!」
小学校時代、桐生薫は容姿端麗で文武両道、陸上部のエースでみんなから人気があった。
だが、高校に入ってから彼女の性格は変わっていた。
彼女の嬉しそうな顔を見ながらぼんやりと過去の辛い記憶を思い出す。
小学校の頃の彼女は、いつも明るく元気だった。どんな時でも俺を助けてくれて、クラスの中心にいた。中学になると陸上部のコーチにスカウトされて頭角を現す。
「流石、うちの陸上部のエースだ。一年でレギュラー入りして県大会で優勝するなんて、思わなかったよ」
「コーチや先輩、皆のおかげだよ!」
この頃になると薫は陸上部の練習にのめり込むようになって、俺と関わる機会は少なくなった。
幼馴染の俺は陰ながら応援する事しか出来なかったが、それでも薫が楽しそうなら良かった。
でも、あの事故の日、すべてが変わってしまった。
「きゃはは、こっちおいでよ、桐生。早くしないと次の授業間に合わないよ」
「こいつ、こっちの階段からの方が早いって言ってるよ」
陸上部の女子たちの声が、薫を急かしていた。
「え、でも、そっちは……」
薫は一瞬ためらったが、陸上部の女子たちに押されるようにして階段へと足を向けた。
その次の瞬間、鈍い音と共に薫は下へと飛ばされた。
咄嗟に受け止めようとした俺は彼女を受け止めて、 「ドスッ」「ぐちゃっ」「ギャッ!」と鈍い音や血が跳ねる音、小さな悲鳴が混じった音と共に一緒に倒れ込んでしまった。でも、俺の手が間に合わなかったことに、すぐ気づいた。
「か、薫! 無事……か?」
薫の顔を見た俺の表情は真っ青になっていた。
「え……血!? 目……刺さってる!? 嘘だろ……?」
手が震える。頭が真っ白になる。
階段から落ちた彼女を受け止めようとした際に、俺は手に持っていた工具箱を放り出した。……そのせいで、工具箱から飛び出した俺の彫刻刀が、彼女の片目に突き刺さってしまった。
「え……うそ……?」
陸上部の女子たちの驚きの声だけが響く。階段の踊り場は悲惨な光景が広がり、後から薫の叫び声が廊下中を鳴り響く。
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い! 目が! 目が!」
「薫! ごめん! ちゃんと受け止められなかった……ごめん。……ごめん」
この時の俺は、目に突き刺さった彼女の目の周りから血が溢れ出して焦っていた。彼女は片目を抑えて蹲って泣いていた。
周囲を見渡すと、さっき突き落とした陸上部の連中は怖くなって「私のせいじゃないからね」と言って逃げやがった。周りも冷ややかな目を向けるだけで何もしない。
薫が顔を押さえてうずくまる。指の隙間から、じわじわと血が滴っている。
抜いちゃダメって……でも、このままじゃ……
パニックで思考がぐるぐる回る。
「吸えばいいんだっけ……!」
訳がわからないまま、俺は彫刻刀の周りに滲む血を吸った。
鉄の味と生ぬるさが口に広がる。
「う……ぐ……っ」
薫が小さくうめいた。
俺は泣きそうになりながら、血を吐き出してからハンカチで止血した。
その時の薫の全身が震えていたので、俺はお姫様抱っこして保健室へと運んでいた。後から先生が救急車を呼んでくれたらしく、そのまま俺は彼女と一緒に病院へと向かった。後で医師から「血を吸うやり方は古い方法で、現代は感染症リスクがあるから逆効果だ」とお叱りを受けた。
中学二年の冬休み前、桐生薫は陸上部のライバルに階段から突き飛ばされた。
その日の出来事は今でもはっきりと思い出せる。薫は右目を失い、元気だった彼女はすっかり変わってしまった。
主犯格だった陸上部の先輩、ライバルと取り巻きたちは逮捕され、薫の事故は学校中の噂になった。
後日。俺は薫の両親の前で土下座した。
「薫の片目を潰したのは俺の責任です!どうか、事件の弁護を俺の母に依頼してください!」
「……武岡くん、顔を上げて」
薫の母親は困ったように言った。「あなたの責任ではないわ。でも……その気持ちは、ありがたく受け取っておくわ」
俺は少しだけホッとした。少なくとも、俺にできることはあったんだ——。
おかげで裁判を勝訴、学校側から謝罪と賠償を勝ち取った。この事件に関わった加害者はパシリの神田を除いて重い実刑が下った。
しかし、どれも薫にとっては謝罪も賠償金も無意味で、何の慰めにもならなかった。
その証拠として時間が経過して高校一年になった今も、彼女の片目もメンタルとも戻っていないからだ。
「ね、ねぇ。今日……。一緒に帰って付き添ってくれないかな。ダメ……なら良いけど」
俺は、弱々しくなった彼女のために、毎月第二金曜日に彼女の療内科の受診に付き添うことにしている。