朝の通勤ラッシュを抜け、街中を歩いていた。何気ない一日の始まり。
人混みの中、無言のままに響く無機質な足音。
そんな中で、それを見つけたのは、無意識に惹かれたからなのだろうか。
ふと、向かいのカフェのテラス席に目が留まった。そこに座っていたのは、自分とそっくりな人だった。
同じような色のジャケット、少しだけクタッとしたビジネスバッグ。そして、考え込むたびに顎に手を当てるクセ。座っているので、身長まではわからないが、まるで鏡に映った自分を見ているようだった。
(へえ、こんなこともあるんだな)
僕は無意識に、その人物を目で追いかけた。
こんな朝の時間に、カフェに入るなんて優雅なものだ。彼は、コーヒーを一口飲みながら、手元の書類に目を落としている。
僕は気になって、テラス席に近づこうとした。
数歩を踏み出すや否や、彼は立ち上がり、カフェの奥へと姿を消していく。
少しばかり、なんだか惜しい気がしたけれど、自分とどれだけ似てるか確認したところで何の得もない。
会社に向かう道のりへと、僕は戻った。
その日の午後、僕は同僚の田中さんに、今朝の出来事を話してみた。良い話のネタになると思った。
「今朝、自分のそっくりさんを見たんだ。カフェで優雅にコーヒーブレイクしていたよ」
しかし、田中さんの反応は予想外のものだった。
「ふぅん、俺もあるよ。自分のそっくりな人を見たことなんて」
「え、田中さんも?」
「ああ、意外とよくあるんじゃないか。知り合いから言われたこともあるぜ、あの時間、どこそこにいなかったかって」
「言われてみれば、珍しいことでもないのかもしれないね。世の中には、自分のそっくりさんが3人はいると言うし」
そう、職場で聞いてみれば、意外とみんな経験していることだった。
ちょっとしたあるあるとして、良い話すネタになったな、とその時は思った。
ただ、その日から、僕そっくりな人物を見かけるという話を、ちらほらと知人から耳にするようになった。
最初は偶然だと思っていたが、複数の証言は重なるにつれて、さすがに無視できなくなってくる。別にそれが悪いと言うことでもないのだけれど。
週末、気分転換に趣味のトレッキングへと出かけた。
夏の爽やかな山を登るのは、気分が良い。街とは別世界の静けさに包まれ、木々の間を抜ける風の音、鳥のさえずり、そして自分の足音だけが聞こえる。僕は心地よい疲労を感じながら、目的地である中腹の展望台を目指していた。
現地で軽く昼食を取り、景色を堪能した後、下山を始めた。
日が傾き始め、山道は徐々に暗さを増していく。慣れた道とはいえ、油断は禁物だ。
不注意だったのだろうか。足元の石に躓き、僕は体勢を崩してしまった。
咄嗟に手をついたものの、バランスを立て直すことができず、斜面を滑り落ちてしまった。幸い、数メートル滑ったところで木に引っかかり、大事には至らなかったが、足首を少し捻ってしまったようだ。
日が完全に暮れる前に下山しようと、痛む足を引きずりながら歩き始めたが、ペースは上がらない。結局、麓の駐車場に着いたのは、予定よりも大幅に遅れた時間になってしまった。
もう夕飯の時間だろうな、家族が待っているかもしれない。
一応、確認をしたけれどスマホに母親からの連絡はなかった。僕がトレッキングで遅れるのは、日常茶飯事だった。
駐車場から自宅までは、車で30分ほどの距離だ。普段なら音楽でも聴きながら運転するのだが、今日は足の痛みが気になって、慎重にアクセルを踏むことに集中した。
自宅の古い一軒家に着いた時、いつもと違う微妙な違和感を覚えた。
あれ、お客さんかな。すこし賑やかな気がする。
僕は車を庭先に停め、少しだけ躊躇しながら玄関へと向かった。足首の痛みはまだ残っている。
鍵を取り出し、ドアを開ける。
靴の数が多い、1人分余分に。
「ただいまー」
返事はなかった。
あれ、と不思議に思いながら、リビングのドアを開けると、そこに広がっていたのは、信じがたい光景だった。
リビングのソファに座ってテレビを見ていたのは、紛れもなく「自分」だった。
ソファに腰掛け、テレビを見つめるのは――まさに「自分」そのもの。僕と瓜二つの顔、同じ体格、そして昨日洗濯に出したはずのスウェットまでもが再現されている。
隣では、弟が座って部活での活躍を得意げに語り、向かいでは、母親が生き生きと相槌を打っている。おしゃべりな母親だ、相手の言葉を三倍で返す。
父親はムスッと新聞を読み、時折、テレビに目をやる程度。だが、酒を片手にそれが上機嫌のポーズであることは知っていた。
いつもの日常がそこにある。
ただ、なぜかそれを傍から見ているという異常な現実。
全身の血の気が引いていく。足首の痛みなんて、もうどうでもよかった。これは一体、どういうことだ?
「本物の僕はこっちだ!」と必死の声を上げても、家族は耳を貸さない。
僕は声を荒げた。しかし、まるで透明人間になったかのように、僕の声は家族に届かない。母親は「あんたも話聞きなさいよ」と、隣の「自分」に話しかけている。弟は肩をすくめて、「兄貴に協調性なんか期待すんなよ」と馬鹿にした。
父親は新聞から目を離そうとしない。
信じられない。これは夢なのか?それとも、何かの冗談なのか?
僕は一歩、リビングに足を踏み入れた。すると、背後から冷たい声が響いた。
「動くな」
振り返ると、玄関に黒いスーツに身を包んだ男が二人、無表情で立っていた。サングラス越しに放たれる殺意めいた視線。
「余計なことをするな、大人しくしろ」と男は低い声で宣告した。僕は抵抗しようとするも、彼らの強靭な腕に掴まれ、身動きが取れなくなる。
「何をするんですか!離してください!」
叫びは虚しく消え、家族はなおも無関心なままだった。
楽しそうな笑い声を背に、やがて、僕は無理やり外へと連れ出され、冷たい夜の空気に打たれる。足首の痛みが再び強くなるが、恐怖がそれをかき消す。
家の前に停まる黒塗りのバン、男たちは躊躇なく僕を車内へ押し込む。
遠くなっていく自分の家の明かり。リビングの窓に、もう一人の「自分」が家族と笑い合う姿が、ぼんやりと見えた。
バンは静かに走り出し、どこへ向かうのか全く予想できないまま、僕は暗闇に呑まれるような不安と恐怖の中、ただ窓の外を見つめ続けた。
やがて、人気のない場所に停車。男たちに促され、僕は降車する。眼前にそびえる巨大なコンクリートの建物は、まるで古びた工場のように佇んでいた。
無機質な入り口を抜け、薄暗い廊下を進むと、錆びたパイプや用途不明の機械が無造作に置かれ、空気はどこか重苦しく、不快な油の匂いすら漂っていた。奥へ進むにつれて、かすかな機械音が次第に大きくなり、そして、広々とした空間へと辿り着いた。
そこには、無数の段ボール箱が積み上げられ、一つ一つの隙間から、信じがたい光景が覗いていた。
箱の中には、まるで眠りについたかのような「自分」の顔が、同じ表情で並んでいる。薄いビニールシートに覆われ、かすかに動くものもある。
僕は、この異様な光景を前に、言葉を失った。足元の痛みも、連れてこられた恐怖も、全てがどうでもよくなった。
ただ、目の前に広がる信じがたい現実を、呆然と見つめることしかできなかった。
「はあ、ずいぶんと多いな。偽物め、いったい何体いる事やら」
男の溜息と同時に、暗がりの中から、重い金属の扉がゆっくりと開かれる音が響いた。
僕の心臓は早鐘を打ち、冷や汗が頬を伝う。全身の力が抜け、あたりを取り巻く不気味な箱たちが息を潜める。
「にせ、もの……? 偽物って、どういうことですか」
僕は訳も分からず、男に問いかける。
すると、返って来たのは舌打ち。「チッ、どいつもこいつも。おい、さっさと処理するぞ」と周囲に命じる。
僕は叫びながら必死に抵抗するも、次々と男たちに取り囲まれ、身体を押さえ込まれる。
「一体、何をするつもりですか!」
必死に暴れて叫ぶ僕を無視して、白衣を着た男が近づいてきた。握られた注射器には、透明な液体が光を反射していた。眼は、まるで機械のように冷たい。僕を人間だと思っていないかのようだ。
注射器の針が、ゆっくりと僕の腕に近づいてくる。
「やめろ!一体、なんなんだ! こんなことが許されるとでもっ……」
抵抗しようとしたが、拘束された体ではどうすることもできない。針先が肌に触れると、チクリとした痛みが走り、次第に意識が遠のいていく。
目の前がぼやけ、男たちの声が遠く聞こえた。
「これで大人しくなるだろう」
「念のため、もう一本打っておけ」
最後に耳にしたのは、男たちの淡々とした会話だけだった。
そして、僕は深い闇の中に吸い込まれるように意識を失った。
====
◎アノマリーファイル
【影人間生産工場/危険度C】
この工場は、町にいる人間の姿を模倣する影人間を生産する施設である。
外観はコンクリート造りで、無機質な古ぼけた建築物。
影人間は、自らを本物だと信じ、一定の記憶を保有している。
初期段階では、不定期に他者に目撃されるのみであったが、やがて最終的には本人と入れ替わる存在へと成長する。対話は無意味で、いかなる証拠を示しても、影人間は自らが人間ではないと認めようとしない。
もし、町の人間すべてが影人間に置き換わった場合、この工場は世界の別の場所へと転移する。
【対処プラン】
影人間の処理と、工場プラントへの強制収容を行い、元の原材料へと戻すことが推奨される。
ただし、工場への破壊行為は禁忌。一定の破壊は自動修復するが、限度を超えると工場は世界のどこかに再構築されるという性質を持つ。
○○市の工場を保護しながら、極力、影人間に変わる住民を減らすよう努力すること。