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「よう、シルヴァン。ちょっと見ない間になにがあったんだ?」
「カイル、なんのこと?」
「片手で逆立ちしながらなんのことはないだろ。それ、当主様からの罰じゃないのか? 罰にしては随分と軽い気がするけど」
「お嬢様がそれはもう健気に弁明してくれたからね。この程度で済んでるよ」
平然と片手逆立ちを続けながら返答するシルヴァンに、現れた青年カイルは興味津々に尋ねてきた。
「そうそうククルーシャ様! みんな気になって仕方がなかったんだ。一体どんなお嬢様なんだ?」
「……根掘り葉掘り聞かれると思ったから、あまりこっちに帰りたくなかったんだけどな。面倒くさい」
「なんだよ。多少の報告は班員の義務だろ。俺は班長なんだからな」
ヴェルセルグ魔公爵家敷地内には、『影』専用の養成所兼宿舎がある。
第一部隊から第五部隊の五編成、さらにそこから班を五つに分けてそれぞれ任務にあたっていた。
ククルーシャの専属従者となったシルヴァンだが、『影』では第一部隊第一班所属となっている。
もちろん最優先事項はククルーシャであるため、最近は養成所よりも本邸の居住棟にいることがほとんどだった。
しかし現在、シルヴァンは当主ルドガーの言いつけにより、第一班共有室で"罰"を受けていた。
一時間の逆立ち。
『影』に与える罰にしては、拍子抜けするほど軽すぎる……というか生ぬるいので、シルヴァンは勝手に片手逆立ちに変更していた。
「あれあれ〜!? シルヴァン先輩、どうしてこんなところで逆立ちしているんです〜!?」
「ほーら、お前のこと大好きなノラまで来たぞ」
「はあ……」
班長カイルに続き、部屋に入って来たのはシルヴァンの後輩にあたる少年、ノラだ。
シルヴァンを心底慕っているため、ノラははしゃいだ様子で彼のもとに駆け寄っていく。
「お疲れ、ノラ。シルヴァンはいま当主様の罰を受けている真っ最中だ」
「カイル班長お疲れ様で〜す! って、ええ!? シルヴァン先輩が罰って、完璧超人の先輩に限ってまさかそんな。お嬢様のご機嫌を損ねたとかですか? いやでも先輩がそんな素人みたいなミスをするなんて思えない……」
「ちょうど一時間かな」
ぶつぶつと独り言をこぼすノラの横で、シルヴァンは両足を床につける。
一時間逆さまの状態だったというのに、汗ひとつどころか顔色すら変わっていない。
「で、結局なにをやらかしたんだよ」
「…………」
「報告義務! 俺、お前の班長!」
「……はああ」
シルヴァンは心底面倒くさそうに、つい先ほど中庭であったことを説明した。
「なるほどなるほど〜。主に無礼な発言をしたため脅しをかけた、ですか〜。さすが先輩です!」
「いや讃えてどうするノラ! その行動がやりすぎだと判断されたから当主様が罰を与えたんだろ」
「え〜でも〜。シルヴァン先輩は教訓の通りにしただけじゃないですか〜。主従関係にある『影』はなによりも主優先だって、このあいだ習いました」
「程度の問題だろ、程度の……」
ノラの言う通り、シルヴァンは教訓を忠実に守った。
明確に主がいる『影』の優先順位は、主、当主、その他ヴェルセルグの血縁、である。
専属についていない『影』は、第一に当主となる。
命令によってそれが覆る場合もあるが、基本的に『影』が優先しなければいけないのは、自分の主だ。
今回もその教えに則りシルヴァンは動いた。主を侮辱するほかのヴェルセルグの子供……専属従者として対処するのは当然である。
「当主様からお叱りを受けたよ。いくら主人を侮辱されたとはいえ、ヴェルセルグの者に毒針を向けるのはどうなのかとね」
「毒針ってお前……」
「おお〜」
班長カイルは軽くドン引き、後輩ノラは羨望の眼差しをシルヴァンに向けた。
(当主様も表には出していないだけで、相当ご立腹の様子だったけど。ようやく一緒に暮らせるようになった大切な娘がはみ出しものだの忌み子だの言われたらそうなるか)
シルヴァンの目から見て、ルドガーはいつもククルーシャを気にした様子だった。
しかし、元世話役ナタリーの報告を鵜呑みにし、これまでククルーシャのそばに行くことを避けていたのだ。
双方の誤解が解けて居住場所を共にするようになってからは、今までの反動もあるのか溺愛に拍車がかかりつつある。
(お嬢様はまだ知らないけど、ひと月ほど一緒に過ごすためにスケジュール調整を進めていたり、部屋を総入れ替えして整えていたり、当主専用の仕立て人を呼び寄せていたり……完全に娘に甘い父親だな)
きっとこれまでの罪滅ぼしも含まれているのだろうが、ククルーシャから「パパ」と呼ばれた際のルドガーの顔はこの上なく嬉しそうで、背景に花が飛んでいそうなほどだった。
引っ込み思案で、ひどく悪家ヴェルセルグを恐れている。そうナタリーの報告で聞いていただけに、本人を前にしたときは別人かと疑った。
(照れながらも当主様に甘えたりして普通の子供かと思えば、元世話係には毅然とした態度で魔眼を使っていたり……まあ、それは無意識だったようだけど)
かと思えば、達観したように大人びた発言をしてみせたりと、シルヴァンの目から見たククルーシャは、謎多き不思議な少女だ。
「でも珍しいな。何事にも文句なしの結果を出すお前が、そんな小さいヘマをするなんて。原則主優先とはいえ、ヴェルセルグの子供に
カイルの言う通りだ。あの瞬間の自分はどうかしていた。
ククルーシャが場を収めたおかげであれ以上の騒動にはならなかったが、本来ならシルヴァンには重い刑罰がかせられていた。
脅しとはいえ、ヴェルセルグの者に手を出そうとしたというのは、そういうことなのだ。
でも、勝手に体が動いてしまった。全く自分らしくない感覚が、そのときのシルヴァンにはあったのである。
なぜだろうと考えて、シルヴァンの脳裏にはククルーシャの顔が浮かんだ。
(普段は気丈なことが多い彼女が、一瞬……)
ああ、そうだ。
シルヴァンはあのときの自分の感情を思い出した。
まだ従者になって日は浅いし、特別思い入れがあるような相手ではないはずなのに。
「辛そうで、泣いてしまいそうだった。だから無性に気分が悪くて、腹が立っていたみたいだ」
すとん、と納得したように呟いたシルヴァン。
彼の発言に、カイルとノラは揃って目を見開いた。
「腹が、立った……気分が……え? お前が?」
「主を侮辱され従者としての義務を果たしたわけではなく? 先輩が自主的に? ええ〜!?」
「揃って大袈裟な。俺をなんだと思ってるの」
シルヴァンは心外だと視線を送るが、それでも二人は首を横に振って言い連ねる。
「だってお前、なんでも完璧にこなすくせに、全部どうでもいいって面してるだろっ。執着の欠片もない、自分のことには無頓着なやつ!」
「ひどい言いようだ」
はは、とシルヴァンは笑う。
「そんな先輩に腹を立たせるだなんて……アインシュ様の暴言レベルとはいかほどで……先輩を苛立たせるなんて才能ですよ〜!」
「ノラ、お前はちょっとズレてるわ。アインシュ様がどうとかじゃなくて、それだけシルヴァンがお嬢様を気に入ってるってことだろ。だから腹が立ったんだ」
「カイル班長こそ、お嬢様相手に気に入るって無礼じゃないですか〜?」
そのあとも二人はシルヴァンを抜きにして言いたい放題だった。
もはや二人の発言は無視して、シルヴァンは考え込むように再びククルーシャの姿を思い浮かべる。
(いままでに会ったことがない子だから、妙に気になる。それに彼女といると退屈しない)
それがいわゆる愛着のようなものなのか定かではないが、最初はどうでもよかった専属従者も悪くないと思い始めているシルヴァンなのだった。
自分の胸を押さえながら「ぺったんこだ……」と面白おかしい発言をしている6歳児公女なんて、なかなかいない。