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第13話 7月26日。日曜日。ふたりきりの休日

 夏休み2日目。

 きらりと眩しい朝日の差す日。


 朝日とともに起きた私は、寝癖をつけたまま、ママに内緒でマンションのまわりを散策した。

 ピンク色のリップを塗って、新品のスニーカーを履いて、春先に買ったTシャツに短パンで、静かで涼しいアスファルトの上をひとりで歩く。電柱の上の雀の群れに、暇潰しに手を振る。迷惑そうな声をあげ、群れる彼らは去っていった。

 「少しくらい、相手をしてくれてもいいのに」

 わずかな落胆を覚えながら、街路樹に囲われた歩道を進む。

 駅に程近い立地のママのマンションの周囲は、生活に困らない程度に栄えていた。朝早くから開いているパン屋があって、ランチが安い定食屋があって、24時間営業のファストフード店があって、トタン屋根の駄菓子屋があって、こじんまりとした公園があって、進学率を誇る学習塾があって、マダム向けの社交ダンス教室があった。

 それらのすべてを、ママは利用したことがないように思えた。車を持つママは電車を滅多に利用しないし、駅前に買い物にも行かないと言っていた。ママはきっと、自宅と職場とあのカフェの往復で、人生を消費している。

 「あら、あなた。靴ひもがほどけているわ」

 「本当だ。もう年だから、やっぱり完璧に出来ないことが増えていくいくな。朝早くから気が滅入るよ」

 「うふふ。至らないところを自覚できているうちは、どうにかやっていけるわよ」

 大型犬を散歩させる老夫婦が、歩道の向こうから歩いてくる。ふたりは肩を寄せて、取るに足りない話をして笑いあう。和やかな雰囲気を纏う夫婦とその愛犬は、すれ違い様に私に明るく挨拶をする。私も会釈を返す。

 ふと、昨日のママの横顔が頭に浮かんだ。暗いタクシーの後部座席で笑うママの横顔は、どこか寂しげだった。自分以外の誰かに寄り添い続けるのできないママの脆さを思いだし、私は唐突に無遠慮な愛憫を覚えた。

 「あら、おかえりなさい。どこかに行っていたの? ハナちゃん」

 早足で帰宅した私を、リビングのソファでコーヒーを飲むママが出迎えた。化粧も髪の毛のセットもしていないママは、部屋着の麻のシャツとズボンのまま、タブレットで経済新聞のアプリを開き、テレビのローカルニュースを聞いていた。

 「ただいま。早起きしたから、この辺りを散策してたんだ」

 額に薄く浮いた汗を、少し前にパパにもらったハンカチで拭う。ポケットから取り出したハンカチは、新品のかおりがした。普段使っているものよりも値段のする絹のハンカチは、あくまで観賞用で、実用には不向きだと知る。吸い取れなかった汗を手のひらで拭い、冷蔵庫からジンジャエールのペットボトルを取り出す。

 「何か素敵なものは見つけられた?」

 ママの待つソファに向かう。ママは私にちらりと視線を向けた。L字型のソファの端と端に、私とママは距離を取って座る。ソファの右端で、ママはコーヒーを片手にタブレットから経済情報を入手する。ソファの端で、私はジンジャエールを片手にスマホから友人たちの近況を入手する。

 「駅前のパン屋さん。朝早くなのに、結構行列ができてたよ。テラス席もあって、家族連れで賑わってた」

 テレビをぼんやりと見つめながら、私は明るい声で伝える。

 「あら、そんなに繁盛しているお店があるなんて知らなかったわ」

 「そのうち一緒に行こうよ、ママ」

 「ええ。ハナちゃんの夏休みの間に、ぜひ」

 テレビでは行楽地の特集が流れていた。タブレットに視線を向けるママは、為替相場や難民支援に関する世界情勢を憂いながら、隣に座る年頃の娘との休日を模索する。

 「今日は何をしようかしら」

 ママはタブレットを閉じ、私に視線をあわせる。ママの取り繕った微笑みには、気だるさと義務感の滲む。私は言い様のないもの悲しさを感じ、そして将来の自分の姿を見た気がして、呆れるほどに空しくなった。

 「ママは? 何かしたいことはある?」

 カラフルでポップでフィクションな画像や動画が氾濫するSNSをスクロールしながら、私は尋ねる。小さな画面のなかで、クラスメートの女子たちは連れ立って遊園地に行き、たまに話す塾の男子は家族で避暑地に滞在し、久しく会っていない遠縁の高校生は部活に打ち込んでいた。

 「何でもいいわ。ハナちゃんがしたいことなら、ママはできる限り全部をしてみたいから」

 テレビは都会で人気の余暇の過ごし方を提示する。東京の高級ホテルの高層階のレストランで、小綺麗な格好の若い女性客たちが、廉価とは言い難いランチビュッフェを楽しみ、様々な角度から写真を撮って笑いあっていた。

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