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第8話 7月25日。土曜日。夜。ママの愛する男の人

 郊外の住宅街にあるママのマンションから、徒歩30分。

 ママはいつも、車で通っているという国道沿いの静かな田園。今日は私の希望で、日が暮れ始めた涼しい時間に歩いていくことにした。

 暇潰しがてら、取り留めのないことを色々話した。ママの仕事のこと、私の模試や習い事のこと、最近のパパのネクタイのセンスこと、家族3人で最後に行った家族旅行のこと。

 曲がりくねったアスファルトを踏みしめる30分は、ママといると一瞬だった。

 到着したのは、薄暗い田んぼの真ん中に佇む、古民家を改装したカフェだった。ママが迎えにくるはずだったバス停から程近い場所。全体的に焦げ茶色の外観は、古い木造の日本家屋を改装したもの。入り口に今風の真っ赤な提灯がともり、”Welcome”と水彩絵具で描かれたボードが置かれていた。

 ママは、前髪の乱れをスマホのカメラで少しだけ確認した。そして、「こんばんはー」と明るい笑みを浮かべながら、入り口の木製のドアを慣れた様子でスライドさせた。

 古めかしい外観から想像できるとおり、狭い室内は古めかしい木々と淡い懐かしさで満ちていた。木製のテーブルと椅子が数脚並ぶ、レトロで温かな作りの店内。オレンジの大小さまざまな電球たちのあかりが、ベージュ色っぽい壁紙と、壁にかかる素朴で柔らかな水彩画の数々照らしている。

 「あら、今日もお客さんはいないのね」

 「夜が少ないだけで、昼は結構繁盛してるんだよ」

 独り言にしては極めて大きな声量で、ママが明瞭に呟いた。するとキッチンの奥から、エプロン姿の黒髪の短髪の青年が現れた。明るい声で反論する青年の笑みを見て、ママは心底嬉しそうに口角を上げた。その笑顔は先ほど私と再会したときより、自然で興奮に満ちているように見えた。

 「あら。聞こえていたの?」

 「わざと聞こえるように言ったんでしょう? あれ、お連れの方はお友だち?」

 花柄のエプロンで手を拭く青年は、細身で、背が高くて、適度に日に焼けていて、クラスメートが好きな俳優に少し似ていて、柔和な笑顔を持っていた。そして顔立ちや雰囲気が、どことなくパパに似ていた。

 穏やかで人懐っこい空気の彼は、私の中学の同級生の男子とは、何もかもが違うように感じた。快活な雰囲気だけど攻撃的じゃなくて、理知的な瞳はすべてを見透かすようで、それでいて大人特有の余裕のある立ち振舞いをしていた。

 「年の近い友達です、と言いたいところだけど。かわいい一人娘のハナちゃんよ。中学2年生なの」ママは私の背中に手をあて、前に出るように促した。「あ、ハナちゃんっていうのは、私たちが呼んでる愛称なのだけれど」

 「はじめまして。じゃあ、本当のお名前は何て言うの?」

 青年はぺこりと頭を下げ、私に優しく微笑みかけた。目尻に、穏やかな笑い皺ができる人だった。

 私はなんだか気恥ずかしくて、答えられずに俯いてしまった。ママは肩をすくめ、仕切り直すように青年を紹介しはじめた。

 「こちら、あおいおじさん。年は少し離れているけれど、ママの親戚の方なの。このカフェは元々、あおいくんのお祖父さんが暮らしていた家でね。事情があって、ママとあおいくんも、一時期この家で暮らしていたの。だからとっても、懐かしいわ」

 すらすらと続くママの言葉に、”あおいおじさん”と呼ばれた明るい青年は、大袈裟に眉を寄せて唇を尖らせた。

 「やだな、先生。おじさんって呼ばれるほど、年をとったつもりはないんだけどな」

 この青年は、ママのことを”先生”と呼ぶ。ママの仕事は、私が知る限り”先生”と称されるものではなかったし、そう呼ばれる姿をみたこともなかった。だけど今、青年に”先生”と呼ばれて舞い上がっているママの横顔は、なんだか童心に戻っているようで、幸せそうだった。

 「そういう意味のおじさんじゃなくて、ハナちゃんから見て、親戚の目上の人という意味のおじさんよ」

 「それは、もちろん分かってるけどさ。でも、あんまりいい気分はしないな。先生だって、おばさんって呼ばれるより、お姉さんって呼ばれる方が心地がいいでしょ?」

 「もちろん、そうよ」

 ママが満面の笑みで、首を縦に振る。明るい色のショートカットからはみ出す大ぶりのピアスが、ママの相づちにあわせて大きく揺れる。

 「あはは。いくつになっても正直だね」

 顔をくしゃくしゃにして笑うあおいおじさんは、目尻に浮かんだ薄い涙を時おり拭いながら、なおも楽しそうに笑い続ける。その無邪気な子供のような眼差しに、成熟した大人の余裕の滲む唇に、前髪をかきあげる日に焼けた手の甲に、大きな身ぶり手振りで強調される健康的な腕の筋肉に、私はいつのまにか見入っていた。

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