ママの最もプライベートな空間は、予想通りどこまでもシンプルだった。ベッド、本棚、机、椅子だけの、無駄も遊び心もない部屋。机の上には、膨大な資料と辞書のような参考書が積み重なる。私はいくつかの本棚のうち、文庫本の小説が固まるゾーンで足を止めた。数冊を手に取り、パラパラとめくる。
"別れる男に、花の名を一つは教えておきなさい。花は毎年必ず咲きます"
本を持つ指が止まる。川端康成の小説の一節だった。
「あら、ここにいたの? ハナちゃん」
前ふりもなく声をかけられ、驚いて部屋の入り口を振りかえる。スーツ姿のママが鞄を肩にかけたまま、笑顔で入り口に凭れかかっていた。
「お久しぶりね。会わないうちに、ハナちゃんはますます美人になったね。ちょっと身長も伸びたんじゃない?」
「ごめんね、ママ。勝手に入っちゃって」
嬉しそうに早口で話すママに、私はぎこちなく微笑む。本を棚に戻した私は、所在なく窓の外を見つめる。気づけば、窓の外は夕暮れのオレンジに染まりはじめていた。
「いいのよ。ハナちゃんが来てくれたこと以上に、嬉しいことなんてママにはないから」
「私もだよ。ママに会えて、私もすごく幸せだよ」
ママは高らかに笑い、寝室に入ってくる。ママはスーツをてきぱきと脱ぎ、私服のワンピースへと着替えていく。スーツをハンガーにかけながら、ママは私を見つめて首を傾げる。
「そういえば、ハナちゃんには苦手な食べ物ってあったかしら?」
「特にはないよ」
「じゃあ、夕飯は外に食べにいきましょう。連れていきたいところがあるの」